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柔らかな麻酔

「マイって女を捜しているんだ」
 その日突然、大柄な男がバーのドアを乱暴に開けて訊ねて来た。
 深夜まで営業している海沿いにあるこの小さなバーには、時折、漁師たちも訪れ、たまに潮に乗って荒くれ者もやって来る。この男もその一人だろう。
「……どんな方ですか?」
 若いバーテンダーがグラスを磨きながら切り返す。
「凄く美人でプロポーションが抜群なんだ。長くてツヤツヤした真っすぐな黒髪で」
「今日は黒髪のお客様はいらしていませんね」
 バーテンダーは慣れた口ぶりで間髪入れずに答える。
「今日じゃなくてもいい。何日か前でも」
「いえ、女性客そのものが少ない店なので」
「……そうか」
 男はがっかりしたように店を出た。
 今日のような質問はもう何度目だろうか。髪なんて容易に変える事が出来るのに、とバーテンダーは思う。

 マイ。
 初めて聞いた時は日本人だと思ったが、中国人だ、と言う男もいれば、あれはブラジリアンだろう、なんて言う男もいる。そもそもみんな捜している割には憶測でばかり物を言うのだからうんざりする。大体、その女性がこの店に来た事があるのかどうかすら定かじゃない。ただみんなが挙げる特徴の共通点は、プロポーションが良くて美人、と言うことだ。

 バーテンダーに話を聞いて店のマスターも呆れていた。
 この界隈では、情事にうつつを抜かす男共なんて飽きるほど目にしているのだから無理もない。客がいないのでマスターはレコードを有線放送に切り替えようとした。
「あ、この曲だけかけていましょうよ。好きなんです。ヘレン・メリル」
「おお、いいぞ。若いのに渋いな。彼女はとてもいい」
 若いバーテンダーは褒められたような気がして嬉しかった。
「今、何時だ?」
「ええっと、今22時です」
「忘れてた。今日は和製ヘレン・メリルのライブだったな。その客が流れて来るかも知れないし、色々準備をしておこう」
「ええ!? 誰ですか、それ!」
「昼間、買い出しに行った時、うちがよく使うタクシー会社の人と偶然会って立ち話したんだ。何でも和製ヘレン・メリルがボーカルをやってるバンドのマネージャーが、軽食があってお酒が美味しくて静かな所をリクエストしてて、この店を紹介してくれたんだ。常日頃から人に優しくするのは大事だなあ」
 他のバーテンダーたちは呑気なマスターの話を遮って、開店準備さながらの勢いで掃除を開始した。またしてもマスターが呆れたようにため息をついた。
「お前ら、それじゃ女のケツを追い回す男たちと変わらないぞ」
「何言ってるんです! いらしたらきれいな店だと思われたいじゃないですか! 第一混み合う可能性もあるんですよ。何でもっと早く教えてくれないんですか」
「そ、そうだな。えらいなお前ら……」
 マスターは首を竦めた。

 22時半、バンドのマネージャーから電話があり、和製ヘレン・メリルはバンドマンを何人か従えてやって来た。髪は黒髪だがアップにしていたので長さは判らない。コートを脱ぐと一瞬だけライブ後の、薄いドレスの衣装を纏ったゴージャスなボディが露わになったが、すぐマネージャーがカーディガンを羽織らせた。
 和製ヘレン・メリルが少し掠れた声で言う。
「大勢で来ちゃってごめんなさいね。少しだけ飲んで食べたら帰りますから」
「お気を使わずに。のんびりなさって行ってください」

 店を利用する時間帯も文句なく、気さくな彼女を中心としたバンドメンバーたちは途端に店のみんなを虜にした。
「次は私たちのライブに来てね」
 彼女がにっこり笑い、店を出ようとしてドアを開けた瞬間、強風が吹き付け、アップにされた髪が崩れてしまった。彼女は肩を上げてはにかみ、店を出た。

 静かになった店内で、誰かが口にした。
「あの人、なんて名前なんですか? とてもきれいで華がありましたね」
 マスターが名刺を見る。
「バンド名だけだな。ボーカルの名前は書いてない。気に入ってくれたみたいだし、また来てくれたら嬉しいな」
 バーテンたちは片付けを始めたが、先程と違い手抜きになっていた。若いバーテンダーの手がふと止まる。また彼女を追って誰かが来るのだろうか。彼は後悔する。たった一言聞けば良かった。彼女に、あなたの名前は? と。

 次の日、早い時間帯に男が店にやって来た。
 すらりとした長身で、スーツを着こなした美しい男だった。
「マイさん、と言う女性は来ていませんでしたか?」
 ついに来た! 若いバーテンダーは興奮したが何とか表情には出さなかった。
「今日はまだ女性客はいらしてないんですよ」
「そうですか」
 男は、ため息のような声で返事をし、目を伏せてカウンターに腰掛け、ビールを頼んだ。
「昨日でしたら近くでライブがあったので沢山いらっしゃいましたよ」
 バーテンダーはあまりにも引きが早い男に対してやきもきしてしまい、つい、余計なお世話かと思ったが男に教えた。

 印象でしかないが、その男は今までマイを訊ねて来た他の男たちとは何かが違った。例えば、どんなに年下であろうと永遠の大人であるかのような雰囲気を纏っているのだ。それは、遊ぶ為に人を捜しているんじゃない、と言う有無を言わせない迫力があった。
「エキゾチックな容貌をしている。人を見る眼差しが湖のように深くて、吸い込まれそうになるんだ……」
 男がやっとマイについて口を開いた。
「差し支えなければ、ですが、日本の方なんですか?」
 バーテンダーの気遣いに、男は柔和な表情を浮かべた。
「フランス人の父親とベトナム人の母親の娘さんだ。でも日本語は話せるよ」
 珍しく具体的な答えだ。
 多数の男が捜すマイについては、みんな口々に、日々変貌する外見にしか言及せず、親についての説明はもちろんなかった。それは当然だ。遊びが目的なら親の事など興味はないだろうし、少なくとも、あのギラギラした男たちが持つ情報とは思えなかった。

「あの、マイさんの職業は、歌手ではないですか?」
 いよいよプライベート過ぎる質問にバーテンダーは恐る恐る言った。しかし男は、はっとしてバーテンダーの顔を見た。力のある目つきだった。
「……どうやら来たみたいだね。そうだよ、マイは歌手だ。彼女とは幼馴染みなんだ」
 しかし、もう居場所は分からない。
 男は片頬を上げて一瞬顔を歪めたが、すぐ小さな溜息をついて元の端正な顔立ちに戻った。
「色々ありがとう。親身になってくれて嬉しかったよ」
 男はバーテンダーにそう言って飲み物の代金を払い、スツールを下りてドアに手をかけた。すると入って来た時は気づかなかったが、床の上に小さな光る物が落ちていた。

 イヤリングだ。
 男は食い入るように見つめてた。バーテンダーは、ふと昨夜を思い出す。帰り際、強風で彼女の髪は激しく乱れた。もしかしたらその時に。それを教えた方がいいのだろうか。バーテンダーが迷っていると、男は屈んでそのイヤリングを手に取ると、大切そうに手の中に包み、ドアを開けた。すると、外から入って来た客とぶつかりそうになり、男は慌てて謝った。しかし、それは昨日の歌手の女性だった。
「マイ……!」
 男は彼女をそう呼んだ。
 こうして呆気なく、男はマイと再会した。バーテンダーが彼女を見ると、昨日のアップスタイルとは一変して、肩ほどの長さの髪を靡かせ、メイクも薄く、その瞳は男が言ったように湖のように深く、吸い込まれてしまいそうな青色だった。

 男とマイは一緒に店を出て、川のほとりを歩いていた。
「君はどうして、人間との付き合いの中で関係が深くなりかけると断ち切ろうとするんだ?」
「それは……、あなたの事よね」
「ああ」
 マイは観念したように息を吐き、自分が泊まっているホテルに案内した。

 マイが男を案内したのは、高級ホテルの最上階のスイートルームだった。
「こんなに広い部屋を借りたって、私の体はちっぽけなのよって言ったんだけど」
 マイは肩を竦めながら、マネージャーが取ってくれたこの部屋の説明をした。
「君に似合うと思ったんじゃないか?」
「買いかぶらないで」
 マイは小さく呟いて窓辺に腰掛けた。

「……何故ユキがこの街にいるの?」
 マイは昔から知っている者同士の親密さで彼を呼び捨てにした。
「君を追って来た」
 ユキと呼ばれた男はそのままを話した。
「何言ってるの」
「本気だよ」
「私なんか……、きっとあなた呆れるわ」
「本当にそうだと思ってたらとっくの昔に君を忘れてるよ。色んな店で君の話を聞いた。みんな、またかって顔をするんだ」
「単なる浮気者の女よ。だから放っておいて」
「放っておいてって顔はしてないよ」
「……色んな男たちが誘ってきたわ」
 ユキは一瞬体を強張らせた。

「でも私、判ってるの。そう言う人たちは外見だけで私を見てるの。何を言っても夜の事しか考えていなくて、私の機嫌を損なわないようにしているだけだった。私はこんな事を考えてるのって言っても、うやむやに同意してすぐベッドに行きたがった。でも私、きちんと断るのが恐くて何かを含んでいるかのように見せかけて別れてしまうの。沢山の男が私を誤解したままだと思うわ。だからみんな私と寝たくて捜しているのよ」
「なぜ俺には話してくれるの?」
「ユキはそうじゃないって判っているから」
 そう言ってからマイは口をつぐんだ。
 ユキが性的不能者であるとマイは知っていた。咄嗟に謝ろうとしたが、嫌われようと仕向けている相手に今更許しを乞うのはおかしいとも思い、ただうろたえた。

 マイはあまりにも魅力的な外見をしていた。
 歌に関しては自信を持って突き進んでいたけれど、外見が能力を凌駕しているのではないかと思うほど、全員がマイの容姿を称賛する。マイは段々嫌われるのを怖れるようになった。その為、ある程度自分が受け入れられると恐怖に駆られ、様々な理由をつけては消えてしまっていた。自らを死んだと言った事もある。マイには自分の外見を利用するような強さが欠けていた。
「もう帰って。本当に呆れるわよ……」
 ユキは首を横に振る。
「君は嘘をついてる。幼い頃はたくさん話をした。俺が、自分の体について、そして生き方について絶望している時、君はどうしていいのか判らなくても俺の手をとって歌を歌って励ましてくれた。あの優しさは本物だった。そんな君を俺は判ってる」
 ユキはマイのいる窓辺に行き、隣に座った。
「……誰かが言ってた。私の事を睡眠薬のようだって。安心するんだって。でもそれは違う。人は眠る時にしかそれを必要としないわ。起きたら私なんかいらないのよ。睡眠薬が切れたらお別れ」
「でも、俺は起きても君が必要で……」
 続きの言葉が出て来ないようでユキは俯いた。
「俺も正直に言おう。俺を欲した奴らは俺を道具としてしか見ていなかった。いつでも上辺だけの優しさを見せ付けられた。何度もだ。そんな優しさは傷つくよ。俺も感情を持った人間なんだから」
 そう言ってユキは目を伏せた。長い睫毛が震えていて、影が頬にまで伸びていた。ユキもまた、どこまでも美しい人であり、そのような外見を持っていて不能であると言う事実は、先天性であるとは言え、どうしたって常に痛みを感じていた。
「ごめんなさい……」
 マイは自分を守ろうとするためにユキを傷つけてしまった事を激しく後悔した。ユキほど昔から自分を判ろうとしてくれる人間はいなかった。そしてマイほどユキの事を知る人間もいなかった。
 おろおろするマイを見つめ、思う。ユキは彼女を性的に抱くのではなく今はただ、抱擁したかった。
「愛してる。ありきたりの言葉しか言えなくて歯痒いけど、俺の事を愛して欲しい」
 それだけ言うとユキは俯いて奥歯を噛んだ。マイはじっとユキの顔を見つめた。大切な事を口にした時のユキの癖だった。同じ傷を持つ二人は、遠く離れて暮らしていても知らず知らずの内に互いの絆を深めていた。
「どれほど人前で明るく振る舞っていても、君が本当は驚くほど繊細だって知ってる。もう自分を隠さなくていいんだ。俺はただ君を受け止めたいよ」

 マイは細い腕を伸ばし、ユキの頬に手を添えた。
「私は卑怯ね。自分が嫌になる。本当は私も判っていた。そうじゃなかったらイヤリングを探しにあの店に行ったりしなかった」
 ユキは思い出してハンカチに包んだイヤリングをポケットから出した。
「子供の頃、俺がプレゼントした物だ……」
「そうよ」
 そのイヤリングは決して高価な物ではないが、マイが好きだと言った石がついたデザインだった。
「傷つけてごめんなさい」
「謝らなくていい。傷ついてなんかいないから」
 ユキは優しく嘘をついた。この痛みには慣れるしかないと判っている。心を開くことを恐れていたマイがユキの体をそっと抱きしめた。その腕にゆっくりと力がこもり、愛する者同士の確かな抱擁になっていった。

 22時半、バーテンダーはうっかり手を滑らせ、グラスを落として割ってしまった。
「すいません!」
「どうした? 今日はミスが多いな」
「あ、いえ、マイさんとあの男の人うまくいったのかなって思って」
「おまえは仕事中にそんな事を考えてるのか!」
「あ、いや……」
 しまった、と思い、彼は思わず首を竦める。他のバーテンたちが笑う。その時、店のドアが開いた。客の顔を見てみんな一瞬息を呑んだ。マイがユキと仲良く入って来たのだ。
「これはこれは、いらっしゃいませ」
 マスターが笑顔で二人を迎え入れた。マイはとても幸せそうな顔をしていて、眩いばかりに美しくバーテンダーたちは、ぼぅっとなった。

 二人はボックスシートに座り、飲み物をオーダーした。くすくすと親密な笑い声が二人の間に流れ、空気を共有していた。
「ユキ、あなたに私の歌を聴いて欲しいの」
 そう言ってユキはマイの頬に触れる。ほどよく酔いが回った頃、マイは一曲歌わせて、とバーテンダーに頼んだ。
「喜んで!」
 バーテンダーは、マイをフロアに案内した。

 彼女はマイクも持たず、自らのフィンガーティップだけでリズムをとった。そこにいる誰もが釘付けになってしまう魅惑的な歌声。容姿の美しさはもうマイにとって避けられないものだったが、たった一人の人間と分かり合えた今、マイはそれすら個性と思える自信と安らぎに満ち、今や内面から美しさが滲み出ていた。ユキもマイに受け入れられた瞬間、長年の心の中の冷ややかな塊が溶けて行くのを実感した。

 マイは歌い続けている。
 その歌声の中でユキは誰かがマイを、睡眠薬のようだ、と形容したのを思い出していた。マイの歌は睡眠薬のようにゆったりと眠ってしまえるような一般的な癒しの歌じゃない、とユキは思う。
 自分の力ではどうしようもないほど吸い込まれていくその感覚は麻酔に近い。ただし、意識ははっきりしている。似て、非なるもの。あくまでも心地良く、体は自然にリズムを刻む。誰もが欲しがるマイという個性。しかし実際には現実との乖離があった。その無垢で柔らかな部分を知られるのを怖がっていた。
 けれどもう怖がる必要はない。
 思わせぶりな含みなんかいらない。大切な人に届けばいい。マイはそう考えていた。バーのマスターも昨日より遥かにマイを魅力的だと感じていた。
 昨日の夕方、直接ユキと接したバーテンダーが他の男たちとユキとの違いを思う。それは俗な言葉だけれ、ユキがマイをきちんと見つめている事だ。そしてやはりそんなマイの深い眼差しは愛するユキだけに向けられていた。


<Fin>

初出 2004-04-14(2023-12-22 推敲)
画像 / Pixabay

あとがき
読んで下さり、ありがとうございます。
2004年当時、存在していた物書きさん支援サイト『ゴザンス』に投稿した掌編です。かなり荒削りではありますが、小説を書き始めたばかりの頃だったので書きたいことが今よりもたくさんあったのだと思います。まだまだ自由に、何も考えず、一時保存も知らなかったので不注意で消えてしまった原稿もたくさんあります。この物語は残っていて良かった。好きな作品です。

幸坂かゆり


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