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跳ねっかえりの天使

 そっと窓ガラスを開ける音がする。彼女だ。そのままリビングに入ろうとしたのだが、窓を覆うカーテンが彼女の体に纏わりついた。更にカーテンの開き口になかなか辿り着けず、手でもがいたため、優雅とは言い難い様子でやっと入って来た。

 彼女が僕の部屋に来る時は、こうして玄関からではなく窓から侵入してくる。他人が聞いたら犯罪者のようだと思うだろう。しかしその犯罪者紛いの行動を取ってやってくるのが僕の恋人なのだ。僕が許しているのだから問題はない。
「カーテンは開けておいてって言ってたのに。きちんとあなたの部屋に来る日を教えていたでしょ?」
 礼儀のなっていない僕の恋人は、部屋に入ってからもまだブラウスやスカートに纏わりつく生地を払い退けている最中だった。何とかカーテンから抜け出すとスカートの裾とブラウスの襟元を直し、改めて僕を見てにっこりと笑った。その笑顔がとてもかわいい。そんな僕も彼女が「開けておいて」と言っているにも関わらず、閉めたまま待っているのはカーテンを懸命に外側から開けようとする姿が屈託なくていじらしいので見ていたいからなのだ。性格が悪い。どっちもどっちだ。

 こうして無事、僕と彼女はあまりロマンティックではない逢瀬に成功した。互いに体調の気遣いに始まり、仕事はどうだったか、何を食べたか、など他愛ない会話が続いた。彼女は話をしながら部屋を歩き、勝手に冷蔵庫を開けた。
「食べ物が何もないわ」
「あ、買い物行かなきゃな、とは思ってたんだけど」
「今すぐ行きましょう! 夜中に食べ物も飲み物もないなんて地獄よ」
 そう言って、彼女が脅したので僕は笑って、そいつはそうだ、とふざけて彼女の言う地獄を怖がりながらふたりで近所のスーパーに行くことにした。時計を見ると20時。スーパーは21時まで空いている。

 飲み物は僕も彼女もビールでオッケーだ。飲みながら食べるチーズやナッツなどをカゴに入れ、彼女は僕の朝ごはんの心配までして魚の切り身と千切りキャベツも入れた。会計すると、ビールのおまけにサラミがついて来た。彼女が喜んで店員さんにお礼を言う。そのまま来た道を引き返す。今宵は三日月がとてもきれいだ。僕は思わず言う。
「君の爪みたいだ」
 彼女は僕の言葉を聞いて手の甲を前に差し出し、5本の指を揃えて自分の爪を見た。
「私の爪は、さかさまの三日月ね」
 彼女の爪はきれいな薄桃色をしていて、ほんの1ミリほど伸ばした爪の上部がとろけるような乳白色で三日月の輪郭そのもののようだった。

 僕らは部屋に戻ると買った物を冷蔵庫にしまい、手を洗う。
「明日の朝ごはん、ないよね。お米研いでおくね」
「ああ、いいよいいよ。米くらい自分で研ぐからゆっくりしててよ」
 僕は慌てて立ち上がり、彼女をダイニングの椅子に無理矢理座らせて米を研いだ。彼女が笑う。
「今ね。苦手な玉子焼きを絶対に克服したいから毎日作ってるの。今度食べてもらうわね」
「オッケー」
 僕は毒味係か。彼女は玉子焼きをどうしても上手に形作ることができないのだ、と口惜しそうに話す。最後の仕上げならどうにかごまかせる。けれど途中、何度か巻く所で焦げたり破れたりして、完成して切った時の断面がどうにもきれいな層にならない、と言う。これをマスターするの、と意気込んでいる。彼女の玉子焼きは、以前食べたことがあるが、言うほど形は悪くなかったし、いや、むしろ上手だったし何より美味しかった。多分、彼女は広告などに載る写真並みの完璧さを追及したいのだろう。

 さて、半ば強引ではあったけど米も研いだし、今日はもう互いに夕食も入浴も終えたので、そこからはごく普通の恋人同士になる。僕らは、お疲れさまでした、と言ってグラスを合わせ、ビールを飲んだ。良く冷えていて美味しい。先ほど買ったチーズやナッツ、サラミ等もすべてテーブルの上だ。テレビでは古い洋画が放送されていたので、観るとはなしに観ていた。ホラー要素が入っていたため、彼女は僕の隣に座り直し、距離を詰めて来た。
「大丈夫だよ。スプラッターとかじゃないよ、この映画」
「精神的に来る方が怖いじゃない」
 僕は笑いながら、たくさん飲んで彼女と話をした。明け方まで。そのうち少し眠ってしまったらしく、ハッと気が付くとテーブルの上もそのままで、テレビはカラーバーが映されていた。僕は隣にいない彼女を探した。

 目線の先、薄暗い窓のカーテンの前で彼女は僕に背を向け、体を震わせ、泣いていた。そんな風に泣き崩れると、薄いブラウスから整列した背骨の形が露わになる。……君は花のような笑顔の持ち主なのだからできれば笑って欲しい。僕は心の中で彼女に言う。彼女は振り返り、涙を流したままで微笑んだ。
「楽しかった。一緒に飲めて嬉しかったわ。玉子焼き、食べてもらえなくて残念だけどそろそろ行くね」
「うん」
 僕も笑おうとしたがそれは失敗し、涙が溢れた。彼女の細い指が僕の涙を拭ってくれた。
「ありがとう。またこうして会えて良かった。よく休んで。体に気をつけてね」
「うん。僕こそありがとう」
「それじゃ」
 僕は軽く頷いた。カーテンが目の前で舞い上がり、僕の視界を遮った。彼女の姿はもうない。今日は彼女の命日だ。来てくれてありがとう。本当にありがとう。


《 Fin 》

解説
どうも何かひとつでも夢中になるものができると、それらをある程度まで追求しないと気が済まない性質らしく、そちらに夢中でしばらく活字と離れておりました。その間、ありとあらゆる感情の嵐が吹き荒れましたが、とても良い経験になりました。しかしインプットばかりしていると自分の中に産まれた感情がぱんぱんに膨れ上がってしまうため、アウトプットの必要性を感じました。

今の私には、書けることが、書きたいと思えることが嬉しい。何かを見たり聴いたりした後、何よりも真っ先に文章を書きたくなるのは私の特性だ。何かに夢中になるということは私に再び、書く想いを呼び起こしてくれました。ここまでお読みいただき、どうもありがとうございました。

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