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幸せな歩き方

「つきあっている人がいるんだ」
 彼は彼女に向かってこう言った。好きです、と告げられた返事だ。
「そう、残念だわ」
 彼女は淡く微笑んで答えたものの、一瞬だけ意気消沈した面持ちを彼に見せた。彼と彼女は同じ職場にいたが彼女が退職するという今日、会社を出てから外で声をかけられ、彼は突然、上記のような愛の告白を受けたのだ。
 彼女を嫌いな訳ではなかった。快活で嘘のない笑顔がきれいで。ただ彼には恋人がいた、と言うだけだ。
「はっきり言ってくれてありがとう。仕事では今まで色々とお世話になりました」
 そう言って握手をして別れた。
 彼は少し罪悪感を覚えながら彼女を振り返った。すると彼女は弾むような歩き方をしていた。思わず、実はそれほどショックじゃなかったのでは、と心の中で訝しく思えてしまい、自分が振られたような気持ちになった。どちらにしても彼女と彼は始まる前に終わったのだ。

 それから数年。その間に彼は恋人と小さなことで上手く行かなくなり、呆気なく別れた。それからずっとひとりだった。別に意固地になってひとりでいた訳ではない。付き合おうと思う存在と出会わなかっただけだ。ちょうどその頃、会社で奇妙な手紙が彼のデスクに舞い込んだ。女文字の私信だった。彼は隠すように胸ポケットにしまい、ひとりになった時、その手紙を開けてみた。便箋からは爽やかなグリーンノートの香りが漂った。彼の脳裏にあの弾んだ歩き方が浮かび、彼に告白した彼女だとすぐにわかった。

『お元気? デートしませんか? 久し振りに逢いましょう。ホテルのプールのチケットがあります。手紙での返信は面倒だと思うのでメールアドレスを書いておきます。』

 ホテルのプールくらいは何度か行っている。そう思った彼はストレス解消にいいと思い、彼女が教えてくれたメールアドレスにOKの返事をした。もし彼女が過去のことを言ってこようが関係ない。泳ぎに来ただけだと言えばいい。そんなふうに言い訳じみたことも考えた。

 当日、赤いルビーのように鮮やかな水着姿の彼女とプールで再会した。数年前よりずっと開放的な印象だ。平日のためプールはすいていて貸し切り状態だった。彼はうるさくなくていい、と彼女に言った。
「そうでしょう? それを狙ったの。私は泳いでくるわ。あなたもお好きなタイミングでどうぞ」
 そう言うと彼女は滑り落ちるようにプールへと体を沈めた。その泳ぎっぷりは見事だった。
「大したもんだな、上手だ」
「実家に海や川があるの。小さな頃から泳ぐのが当然の地域にいたせいね」
「それでもすごい」
 彼も水の中に入った。ずっと会社の中にいた自分に吸い付くような水は心地良かった。彼女が彼の後ろでクロールを始めた。それが結構なスピードだったのでつい闘争心が出てしまい、彼も彼女を追った。なかなかいい勝負になったが、最終的に彼が勝った。

「変わってない」
 水からあがり、プールサイドで並んで座る彼女が笑って言った。
「何が?」
「そういう、すぐ意地になるところ」
「つい勝負したくなるんだな、僕は」
「いい所なんじゃないのかしら。闘争心は人に植え付けられているものよ」
「君もか?」
「うーん、できれば競いたくないタイプかな」
「それは悪かった」
「いいのよ。あなたらしいから」
 彼女はビニール製のビーチバッグを探って煙草を取り出した。それを見て、しまった。忘れて来た、と彼は思った。
「一本もらえるかな」
「いいわよ。何本でも吸って」
 彼女は煙草の箱を彼の方によこした。青いパッケージの1mm煙草。それでも吸い応えのあるいい味だった。

「今日はよく来てくれたわ」
「え?」
 何故か唐突な事を言われた気がして、煙を吐きながら、ぼぅっと答えてしまった。
「来ないかな、と思ってた。でも一緒に泳いでくれて嬉しいわ」
「それはどうも。泳ぐのは好きなんだ。それから、君がどんなふうになったのかも少し興味があった」
 本心で彼は言った。彼女はその言葉に大きな目を更に大きく見開き彼に尋ねた。
「どんな興味? 見た目なら髪型以外変わってないわ」
「君の告白を断った日、君の後ろ姿がとても快活に見えたんだ。まるで僕が振られたみたいだった」
 彼女は吹き出した。
「私の歩き方は元々ああいうふうなの。とてもハッピーになる歩き方でしょう? 誰も失恋後だって言っても信じてくれなかったわ」
 そうだったのか、と彼は考えていた。
「印象的だった」
「嬉しいわ」
「ところで、君の現在の職業について訊いてもいい?」
「個人輸入の会社をやっているわ」
「へえ」
「もう退職届を出した時には目途が立っていたの」
「それで、今は?」
 少し消え入りそうな声で彼は問いかけた。
「なに?」
「恋人」
「あら、急に話題が変わったわね。ついこないだまでいたけど別れちゃった。一応結婚も考えていたんだけど、彼が実家で両親と一緒に住もうって言って来て、言い合いになったからお付き合いをやめたの。私は自由に歩きたい。何だったら結婚もしなくていいわ。もしも天涯孤独になって死後数日後に発見されてもそれでいいと思えるの」
「すごいな、僕は怖いかな。孤独に死んで行くのは」
「実際にそうなったら私だって判らない。でも今はそのくらいの気持ちでいる」
 彼女の顔は化粧が取れたのか、元が薄かったのか知る由もないが、薄くそばかすが彼の目に映った。それからふたりは途切れることなく様々な話をした。
「知らなかったな。君と話しててこんなに楽しいなんて」
「あの時のこと、後悔してる?」
「少しね」
「少し?」
 不満げな声で彼女は返した。
「今こうして一緒にいるから」
「そういうことね。ふふ、私も楽しいわ」
「ところで」
 彼女は彼に目で話を促した。
「急なお誘いだったね。驚いた」
 彼女はプールサイドから足を水の中に入れて、ぱしゃぱしゃと上下に振った。
「あの時、私が告白した時に初めてあなたと私はふたりで話をしたのよ。社内で他の誰かがいる時ではなく、たったふたりで。もっと話したかった。ううん。お喋りしたかった。余計なことを考えずに」
「うん。そうだな。僕もだ」
「そして、あの職場にいる友達に聞いたの。あなたが恋人と別れたって。だから思い切って再チャレンジしてみようと思ったの」
「なるほど」
「手紙を出して良かった」
「ありがとう」
 そうして、ふたりはたった今、出会った。

「ね、私の水着姿、どお?」
「可愛い。キュートだと思う」
「可愛い?」
 彼女はその言葉に少し不満げだった。
「個人的にだが、もう少しウエストに厚みがあってもいい」
「ああ、そうね。細すぎるのよね。もっとグラマーな美女になるのが理想なの」
「ファイトだ」
「そうよ」
 ふたりは笑った。
「そしたら、今度は誘惑しちゃうから。覚悟してて」
「待ってる」
 プールの水面には太陽の光があたり、美しく揺れていた。


<Fin>

あとがき
このお話を書いた当時(2004年~2006年)は、普通に公共の場で煙草が吸えた時代でした。今回、noteに載せるにあたり変更した部分がいくつかあります。
まず、彼女は彼に手紙を書いたけれど、彼から彼女に返事をする部分を手紙ではなくメールにしました。現代では特別な関係じゃない限り、手紙というのは面倒だろうと思ったのが理由です。もうひとつは後半、彼女が彼に水着が似合うかどうか訊くところで当初は、腰を掴む、と書いていましたが他人の体に無闇に触れるのも、このご時世いかがなものか、と思い、手で表すという表現にしました。

個人的に、この辺りに書いた掌編は片岡義男氏に影響を受けていた頃でした。ご一読いただき、ありがとうございました。

photo by pixabay

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