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明日死ぬ私は、明日生まれる私のために生きる。

ヒラメの昆布締め。

この寿司を初めて食べたのは最初の会社に入社した、20を少し過ぎたくらいだった。都会の暑苦しさにうなだれるなか、残業続きだった経理の仕事がようやく落ち着いたころ、上司に寿司をご馳走になった。

都会のじめじめとした特有の熱気と、疲労で身体がヒートアップしていたので、このさっぱりとしつつも凝縮された旨味が、私の身体の隅々にまで浸透していった。

全身で旨いと感じたこの寿司を、後輩に食わせてやれるそんな男になりたいと若い時の私は志しも高く、目もギラギラしていた。

けれど、その願いは叶わなかったし、もう一度食べることさえできなかった。

私は病院の大部屋の、白いカーテンで区切られ、純白とはいえないボロボロなシーツがかけられたベッドの上に横たわっている。

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私はとても裕福とはいえない家庭で育った。小さい時はスーパーのパック寿司を食べさせてもらったことはあるが、パック寿司といっても、まぐろのタタキが中に入っている細巻だった。

大学生になって、回転寿司のチェーン店が流行り始めたときに、アルバイトで稼いだお金で初めて寿司といえる寿司を食べた。食べたネタを覚えきれないくらい、涙を流しながらむさぼり食べたことは覚えている。

大学の学費を払うのに精いっぱいではあったものの、月に1回は回転寿司を食べに行っていた。

流れゆく "カルフォルニアロール" を眺めて、日本に生を与えてくれた神様に賽銭をつぎ込むかのように、食べ終わった後の皿をどんどん回収口に投入していった。

寿司は私の生きる源になっていた。

それは、食べて明日を生きる活力になることもそうだし、もっと旨いものを食べてみたいという夢でもあった。

だから私は、学費を滞納して寿司をたらふく食べて今が幸せだという選択肢を選ぶことなく、ひたすらに勉強して、良い会社に就職し、もっと旨い寿司をありったけ食べるための道を選んだ。

その努力は実り、私は一流メーカーに就職することができた。

それから冒頭に話したように、漢のなかの漢になることを誓い、一心に仕事に向かった。しかし私は機会に恵まれなかったこともあり、上司からの評価は同期のなかでも標準的なところに落ち着いていた。

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一流メーカーに入ったことで、合コンに行く機会も多かった。最初は、今まで女性との交友関係も少なかったこともあり、緊張して行くことも拒んでいたが、一度行ってみると沼に落ちた。

私の会社は女性から評判がかなり良いみたいで、緊張する間もないほどに、女性からのアプローチがすごかった。それは他の同期たちも同様なのだが、私の話にも何にでも食いついてくるし、夜に誘えば喜んで付いてくる。私は遊びに遊んだ。

そして、そんな中、顔が私のタイプのど真ん中だった女性と婚約した。

こんな綺麗な人と、良い歳の取り方をした時、行きつけのすし屋で、カウンターの端の席に並んで座り、酒を嗜みながら少しだけ寿司を食らう。「大将、今日いいのなにかはいってる?」とか聞きながら、毎日のようにのれんをくぐる。そんなことを想像しながら、この人と幸せになろうと思っていた。

しかし、そんなこれからの私の幸せの人生は、
全て、リストラとともに崩れ去った。

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私の会社の取引は、主に海外とのことが多い。なかでもその半分をアメリカが占めている。

1861年の南北戦争の勃発以降、その国は治安が良いとはいえないながらも、国内で大きな紛争はしてこなかった。世界の平和の均衡を図っているのも、この国の政治的、軍事的な統率が半ば強制的ながらもとれているからだった。

しかし、この統率が突如として決壊し、民主党と共和党のそれぞれの支持者が暴徒と化し、国内外に大きな影響を及ぼした。

そして、私の会社の取引が滞り、仕事よりも遊びに気持ちを注いでいたことで評価をみるみるうちに下げていた私には、早いうちに通達が来た。

一流企業という肩書を失くした私は、もちろんのことながら婚約を破棄され、仕事も女も失ってしまった。遊びに消費していたので、貯蓄もなかった。

金を稼いでからも、実家には何も貢ぐことはなかったので、未だに貧乏な両親を頼ることなどは到底できず、また一から自分でやるしかなかった。

けれど、全てを失った絶望感に、生きるのをやめることを考えた。

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小さい頃は、生死について考えることなどなかった。

" 今日の午後、首都高で大型トラックが絡む事故が起き、追突された乗用車に乗っていた家族4人が死亡しました。 "
" 本日未明、東京都葛飾区にある住宅で火事が起き、この家に住む70代の男性の死亡が確認されました。 "

テレビで流れるそんなニュースは、遠い異国で起きていて、私の身に降りかかるものではないと思っていた。死んだ後どこに行くのかなんて考えることもなく、嫌なことがあれば「死ね」と、息をするかのように人に浴びせていた。

けれど、それは、他の皆もそうだったから、自分が今は生きていて、生きた後には死ななければならないだなんて思っていなかったのだろうし、死ぬことが怖いことだということを、誰も知らなかったのではないかと思う。

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死ぬことが怖くなったのは、高校2年生の時だ。
身近な人で初めて、祖父が死んだ。

祖父は寡黙な人で、どこかに連れて行ってくれたり、よく遊んでくれたりしたことはないのだが、家は近くにあったので、よく顔は合わせていた。

祖父の家に行っても、だいたいは母と祖母が話していて、私はこたつから頭だけを出して寝ているばかりで、祖父は散歩に行ったり、庭で盆栽をいじったりしていた。

祖父が逝ってしまう1週間ほど前にも、母と一緒に家を訪ねた。黄色に染まった庭のイチョウの木が、風に吹かれる度にその葉を落としていたのだが、祖父が何度も何度も腰を曲げて、その落ち葉を拾っていたので、まだ足腰が元気なんだなと眺めていた。

そんな祖父の、突如として抜け殻となった姿を見て、間近に死を感じた。

その日から、寝床に着くと時折、死ぬことがどういうことかを考えてしまう。初めのうちは天国に行って、空からこの世を見つめ、各地で起きていることを笑いながら楽観できるんだと考えていたのだが、祖父の身体が燃やされて骨になったことがフラッシュバックし、身体も、心も、名前も、すべて失うんだと、すべてが無に返るんだということを思う度、動悸が激しくなり発狂している自分がいる。

考えるのはやめようと思っても、いつかその時は必ずやってくると思うと、夜だけでなく、日中も無気力に襲われて、寿司でさえ喉を通らなくなった。

その日々は、太陽が昇り降りを繰り返すごとに、次第に意識が薄れていくのだが、ある時ふとまた考え込んでしまう。祖父の死んだ日から、そんな繰り返しが続いていた。

けれど、何もかもを失った40手前の私は、そんな恐れを感じないくらいに絶望に包まれ、死にたいと身体が訴えていた。

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この手元に残っているお金で、最期にあの寿司を食べようと、上司が食べさせてくれた寿司屋に行った。カウンターの端の席に座り、本日のおすすめと手書きでかかれた品書きを見た。

隣には部下もいなければ、女もいない。
品書きには、私の身体が唸りをあげたヒラメの文字もない。

「あのー、ヒラメはありますか。」

「お客さん、この季節にヒラメは置いてないですよ。」

私の心情を読み取ることもなく、私よりも若い板前は冷たい口調で言った。

そんなことも知らなかったんだと、自分を情けなく思ったが、もう羞恥心すら残っていなかったので、堂々と4400円する特上にぎりを注文した。

その寿司は文句なしに美味しかったが、
何もかも失った私に、" あのときの味 " という心残りが生じた。

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寿司屋を出て、公園のベンチに座った。

心残りはあるものの、ここから再生する気力はなく、その心残りは来世の私に託そうと思った。

空を見上げると、月が見えた。
この夜に相応しくないとても大きな満月だった。

「果たして、私は、来世もまたこの星空の下に生まれてくることはできるのだろうか。」

私が生まれたのは、西暦で数えたら約2000年の時が流れた頃なのだから、それまでは私は誰で、どこで何をしていたのか。死ぬということは、その場所に帰るだけなのだと、死に対する恐れを抱える私は、そのパニックに陥るとそう自分に言い聞かせてきた。

だから、死んでもまた別の私になって、生まれてくることができるのだと。

でも、この月を見て思う。

地球。私が立つこの地球は、たった2000年しかここにはないではないか。太陽、水、空気、生きる環境が奇跡的に整えられたその場所に、適応するように私たち生命は生きてきた。

今ここにいる私たちは、それが奇跡だとは思っていない。科学が発展して、日を浴びて、水を摂取して、息を吸って、生きられる理由が明確になっても、この星空の中の小さな惑星に生命が宿っていることは、当たり前なのだ。

今、私が死ぬように、この星も死ぬかもしれない。

この星が死んだら、私はどこに生まれることができるのだろう。

そこでは、きっと寿司は食べられない。

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失業とともに東京を離れ、地方の小さな漁業会社にお世話になった。

この町の海をふらふらとしていたら、当時の社長に声を掛けられ、最初はもちろん怪しまれていたのだけど、事の経緯を話したら、" ならうちで、働け "と誘ってもらった。

偶然にも、会社の成長期で、事務の仕事を人に任せたかったらしい。

私の好きな魚のため、海のため、地球のため、私にできることを考えて、海に近い町に移住した。

それから日の出とともに、浜辺でごみを拾っていた。それは、社長に声をかけてもらう前から、その小さな会社を退社してからも、毎日続けていた。

物欲は何もなかったので、ビールを買いにコンビニに行くたびに、レジの横の募金箱にお金を突っ込んでいた。途上国の学校の建設に使われるらしい。

私に大きな力はないが、海を守れば、来世の私が寿司を食べられるだろうし、途上国の支援に協力すれば、たとえそれらの国に生まれても、この国と同じように不自由なく海外に渡航することができているはずだ。

その行動で、今の私が受益することがなくても、未来に生まれる私がその効果を受けることができるかもしれない。

これは、未来への投資だ。

私の頭に、自ら死を選ぶという考えはなくなっていた。

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そして私は今、海辺の病院の窓から日が沈むのを眺めている。

ある日の朝、いつもと同じようにごみを拾っていた私は、砂浜に顔を埋めて倒れているところを発見された。

ここに運ばれてから、最初のうちは気持ちも興奮していたのか、医者や看護師のささいな言動が気になって、言ってはならないような事も言ってしまったし、点滴を抜いて勝手に外出したりした。

けれど、誰も私に強く当たらなかった。興奮も次第に収まり、冷静になって考えると、強く指導されるどころか、日に日に優しさが増すばかりだ。

そして、私は看護師の冷たくて寂し気な目を見て察した。

私の最期は近い、のではないか。

いよいよ死が近づいてくると、心にこみ上げてくるのは、あの時の寿司をもう一度食べたいということだった。この町に来てから魚に困ることはなかったが、" あのときの味 "はここにはなかった。そこにはもう死の怖さなどはなく、また生まれ変わって、あの寿司に出会いたいという希望しかなかった。

もう、私のこの舌でそれを味わうことはできないだろう。

けれど、そのものがこの世界に存在している限り、生まれ変わってそれに出会うことはできるはずだ。

生まれ変わるためにはこの世界が必要で、どこの異国に生まれても、この国に辿り着かなければならない。

私はまた、寿司を食べるために生まれてくる。
そしてまた、死ぬ。

この世界がある限り、これを繰り返すことができる。

私はこれからもその繰り返しのために、
生きている間は、
またいつかこの世界のどこかに生まれる、私のために生きよう。


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