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見えない未来を見据えた時に、私の今が始まった。

「どちらかというと、可愛いは恋愛対象ではないかな。」

はっきりとは覚えていないけれど、私の身長は高校生頃から伸びていない。私の母もそうであったらしいのだけど、そういう人は大抵早熟で小学生の頃は一番後ろに並んでいたという話をよく耳にするが、私は半分より後ろに行ったこともない。

他の子と相対的に比べると小学生の頃がピークで、それでも丁度真ん中くらいの背丈だった。その頃から身長の高い女の子には見下ろされていたのを覚えている。それが中学生になると段々列が前になっていき、高校生では前から2番目に位置した。

かろうじて一番前を避けることができたのだが、この頃には「チビ」と言われることにはすっかり慣れていた。

思春期の頃は女の子と話すことに恥ずかしさがありモジモジしていることも多かった。決して可愛い顔をしているわけではないのだけど、そんなチビの私は、母性本能溢れる女の子からは可愛いと言われることもあった。

今ではそれがマスコット的な意味合いであることが分かったのだけど、当時はあまり異性との交流がなかった私にとって、話をしてくれる貴重な人だったし、なにより青春だった。その中に惹かれた相手もいたが、彼氏がいたし、別れても他の人と付き合ったりした。

「どちらかというと、可愛いは恋愛対象ではないかな。」
というのは、そんな子が友達に漏らした本音だった。

大人になるまで私の恋愛はその程度で、恋愛漫画のような青春時代を過ごしたことはない。けれど、私は恋愛なんかよりも遥かに熱中していたことがある。

そんな恋愛に疎い私に、そんな未来が待っているとはこの時はまだ想像もつかなかった。

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私は小学4年生の時に陸上競技を始めた。ゲームばかりしている私を見かねた親に無理やり行かされた。(ほんとうに腕を引っ張って連れていかれた。)走るだけの練習、結果の出ない試合、楽しむことなど到底できず、成績も一番下のグループだった。

小学生というのは残酷で成績の良い人が固まって、輪の中心になる。もちろん私は蚊帳の外だった。競技自体も、友人関係もどちらも好きになれず、毎週土曜日の練習は辛かった。

私の性格は基本的に真面目というかビビりなので、練習を休んで後から友人に囃し立てられたり、ダラダラとしてコーチや先生に怒られたりするのが嫌だった。だから練習は皆勤賞だったし、真面目に取り組んでいた。6年生になると毎週水曜日に参加自由の練習が始まったのだけれども、それには精神的に行くことができなかった。陸上競技は嫌いだった。

「いつ花が咲くかは分からない。咲かないときは下に下に根を伸ばす。」

 中学の恩師の言葉。他の競技もそうなのかもしれないけれど、陸上競技はいつ爆発的に記録が伸びるかが分からない、誰にでもその可能性はあるのだから、記録が伸び悩んでいるときも真面目に練習に取り組みなさい。ということだ。

私は小学6年生の時につぼみが膨らみ、中学3年生で花が咲いた。

つぼみが膨らんだ日は唐突にやってきて、今までの記録を1秒ほど縮めた。この日から「足が速い」と分類されるようになり、上位グループの子たちからも次第に話をされるようになった。ゲームばかりの日々に少しだけ明るさが生まれたように感じた。

それから、中学3年生まで毎年1秒ずつ縮めることになる。6年生の時のように劇的に1日で1秒以上速くなることはもうなかった。理由はともかく、コツコツと練習に取り組んだことがそのまま形となり、少しずつ速くなっていった。

そして、花が咲いた。今まではせいぜい市内の大会で入賞する程度だったのだが、県大会で3位、全国大会にも出られるようになった。

私のピークはこの時で、それから高校生になり、辛うじてリレー競技でインターハイに行くことはできたが、100mの成績が大幅に伸びることはなくなった。

今では10年も前のことになる私の全盛期、あの頃に戻りたいかと言われれば私は「嫌だ」と即答するであろう。日々走りこむ練習と体育会の上下関係。負けん気が強いわけでもなく、競争心が高いわけでもない私は、そういう環境に合わなかったと今でも思う。陸上競技が好きになったわけではなかった。

けれど、確かに掴んだものがある。いつか咲くと信じて、毎日水をやり続ける。咲かせるならば大きな花をと、根を長く長く伸ばし続ける。一度咲かせた経験は、私の自信となった。

学ぶことが初めて楽しいと思えた大学生、授業に最も熱中していると自負しているならば、成績も一番でないととこだわって、主席で卒業した。
おもてなしを学びたいと始めたテーマパークでのアルバイト、毎週土曜と日曜、片道2時間の距離を3年間通い続け、学生ながら教える立場になった。

行き着く場所を見据えたのなら、どれだけ時間がかかっても、しっかりと前に進んでいく。そして、その目的地に確実に到着する。高性能でなくてもいい。周りに評価されなくてもいい。それが私が決めた行く先ならば、そこにたどり着ければそれはゴールだ。

この競技を通して、私はタフなエンジンを積んだのだと思う。

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このエンジンがなければ、今の幸せがなかったと心から思える。私は大学4年生の時に人生の岐路に立たされた。

冒頭で話したように恋愛については疎く、二十歳になっても誰ともお付き合いをしたことがなかった。けれど、とうとう私にも春が来た。

容姿から好きになったのは正直なところだけれど、何をするにも初めてで、一つ一つの出来事の思い入れが強くなり、盲目的に、少し危険な匂いをも感じるほどの重たい男になりつつあったような気がする。そして、何より恋愛の知識というものがかなり浅かった。

夏に差し迫るころ、その女性に子供ができたことが分かった。

頭が真っ白になった。今まで真面目に生きてきた自分にとって、人を、そして命を大事に考えられていなかったという事実に、大きなダメージを受けた。

どういう将来を描けばいいのか。今日を、明日をどう生きていけばいいのか。人生という道の一歩先が見えなくなり、なきじゃくりながら家族に電話をした。誰も私のことを責めなかったことに、少し冷静さを取り戻すことができたのだと思う。

将来、目指しているものもあった。けれど、これまでの私の生き方を振り返って、目の前の人を大切にできない人生に価値などなかった。
もはや、選択肢は一つしかなかった。

「この人とこの子を幸せにしよう。」

行く先を見据えることができた瞬間、私のエンジンは静かに声をあげた。

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今年、私は2児の父になった。当時、働いてもいなかった私には今日に至るまでに試練は山ほどあったけれど、多数の人の協力を経て、家族4人で暮らしている。

あの時に陸上競技を始めていなければ前に進むという選択肢を持つことはできなかった気がする。あの日、見据えたゴールにはまだまだ到達しないし、いつ到着するのか見当もつかない。けれど動き出したエンジンは、止まることもないはずだ。ゆっくりでも確実にゴールに向かって走り続けることができるとそう思う。

私が毎日コツコツと作り上げたこの精神は、とてもタフなものだと自負できるのだから。


#エンジンがかかった瞬間 #エッセイ #コラム

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