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【映画感想】今すぐ劇場で『窓ぎわのトットちゃん』を観てくれないか

 映画を観た。些かの興味もなかったタイトルだ。どこかで見かけた予告編にはまるで唆られなかったし、「あの黒柳徹子の真実の物語!」という謳い文句も当然のようにスルーしてしまった。当時の俺は黒柳徹子といえばあれでしょ……徹子の部屋の……くらいのナメ腐った認識しかなく、実際腰抜けであった。

 だがいざ公開されると、なにか只事ではない感想が続々とTwitterから寄せられくる……一体どうしたことかと思い、この目で確かめてみることを決めた。平日昼の回というのもあってか、俺以外の客層はご年配の方ばかりで無駄に緊張してしまったが。そんな中上映が始まり、俺は……ただ圧倒され、慄き、泣いた。上映後、他の客たちが腰を上げ歓談する中、俺の体はしばらく席に張り付いたままであった。

『窓ぎわのトットちゃん』。その後俺は衝動のままに書店で原著を購入し、それを読み進めながらこの記事を書き殴っている。

短評
2023年ベスト映画にして、オールタイムベスト・アニメーションの1つ。包み込むような優しさと底冷えするような現実の見事なコントラスト。誰もが何気ない日常を享受できることがどれほど尊いことか、その語り口の切実さに圧倒され、戦慄さえ覚える。

はじめに

 まずこの映画をまだ観ていない方、行こうが迷っている方へ、時間がない。こうしている間にも席数はどんどん減っていき、都内はまだしも地方とかだと鑑賞機会は失われていこうとしています。はっきり言ってこの記事を読んでいる時間も惜しい。年末年始の予定を圧迫してでも確かめに行く価値はあるので観に行ってください。あとこの記事では核心的なネタバレ(トットちゃんは生存するとかそういうのじゃないぞ)は避けているけど、どうしても具体的な内容に踏み込んでいるので気を付けてね。

 また監督をはじめとしたスタッフの皆様へ、これだけの傑作を世に送ってくれて本当にありがとう。制作にあたっての皆様の苦労がどうか報われてほしいと、その一心で本記事を書いております。あと欲を言うならば、次からはもうちょっとだけ興味をそそられる予告編を作ってほしいです。

 そして黒柳徹子さん、ごめんなさい、俺はあなたという人間のすごさを見誤り、誤解していました。徹子の部屋系のミームばかりに染まって、もっと本質的な部分を見落としていた……トモエ学園時代の思い出を残してくれてありがとう。あとYouTubeで最新の動画(ハワイのスーパーで爆買いするやつ)見たよ、これからも末永く元気でいらしてください。

簡単なあらすじ

 トットちゃんこと黒柳徹子は小学1年生!だが奴はとんでもない問題児だった!授業に集中できず騒動ばかり起こすので尋常小学校を退学させられた彼女は、自由が丘駅の近くにある謎の学校「トモエ学園」に入学することに。そこは鉄道の車両が校舎になっていて、他の学校にはない独特な教育が施行されていた。他所では問題児だったトットちゃんは先生や家族に大切に育てられ、すくすくと成長していき、小児麻痺を患う泰明君をはじめ個性的な学童たちと仲を深めていった。しかし時代は昭和前期、太平洋戦争がはじまると世の中はきな臭くなっていき、これまでの幸せな生活がどんどん脅かされていく……果たしてトットちゃん達やトモエ学園はどのような運命をたどっていくのか……

 この映画は黒柳徹子による同名の自著伝的小説が原作となっている。原作はごく短い掌編が集まってできていて、そこからエピソードをピックアップしたり、一部脚色を加えたりしているのが本作の構成になる。あくまで実話モノなので、よくウェルメイドと言われるような端正なプロットとは違うし、終盤に巨悪が爆発四散するような凄いカタルシスがあるわけではない。しかしそんなことは些細な事であり、本編を目撃したお前は生の物語の凄みを全身で浴びることになるだろう。

 正直に言って俺は、本作の凄まじさを正確に解するだけの知識と語彙を持ち合わせている自信はない。決して敷居が高いわけではないのだがいかんせん言語化が難しい。なので各々実際に観たまま感じてもらうのが手っ取り早いのだが、まだ半信半疑な者はこの先を読み進めてほしい。

アニメーションに酔いしれろ

 ポスターやPVを見てのとおり、本作のキャラクターデザインはかなり攻めている。顔立ちは今の主流からは全然外れているし、化粧の濃さなど、誤解を恐れずに言ってギョッとさせられる。監督のインタビューによれば児童画のデザインを参考にしたとのこと。この判断が成功しているか否か、それはわからないが、そんなことは本編開始から1分くらいで気にならなくなる。

 このアニメは作画がいい、とんでもなく良い。それは戦闘シーンでキャラがやたらヌルヌル動くとか、キャベツの作画が無駄に凝っているとかそういう次元の話ではない。

 まず目を見張ったのは恐ろしく丁寧な背景美術。そしてその中生き生きとした人間の動作、所作のREALで生き生きとしたさま。それらを最大限に活かすカットやコンテのセンスの素晴らしさ……冒頭の自由が丘駅のシーンの時点でこの素晴らしさに「wow,master-piece……」と息を飲んだが、そのクオリティがおよそ110分間息切れすることなく、むしろ加速する。例えばオーケストラのシーンなど、さも当然のように大人数の人間を動かしていて迫力があるし。そういうハイコストなシーンでも余計な飾り気が一切ない美的センスも光っている。そして詳細は伏せるが、終盤で徹子が走り出すシークエンスのアニメは全く凄くて、言葉にできない。

 加えてこれだ、本編にいくつか挟まれる超現実的なショートアニメパート、こいつも非常に良い。こうしたアバンギャルドな演出というのは「ほら、オレたち面白いことしてるでしょ」みたいな作り手の目配せを感じると白けるものだ。無論本作はそんな失敗とは程遠く、登場人物の豊かな心象風景や、内面の変化を見事に表現したものになっているので、急に絵柄とかが変わってもスルリと飲み込めて、心に残るパートに仕上がっていた。

 これはまさに今年公開の『アクロス・ザ・スパイダーバース』にも通じる話だが、あのスパイダーバースに肩を並べうる代物が、よもや本邦のノーマークだったアニメから飛び出してくるとは思わず腰を抜かした。

 あと付け加えるとしたら、劇伴を初めて音響周りも文句なしに素晴らしかったことは言いたい。そういった所も本作は妥協なく作り込まれている。

黒柳徹子と愉快な仲間たち

 次は内容の話に移る、本作は作画のパワフルさに負けないくらいキャラクター(といってもモブ以外実在人物であるが)もパワフルである。その代表たるのが、徹子が通うことになるトモエ学園の校長、小林宗作である。

 事実は小説より奇なりとはよく言うが、はっきり言って彼は異常すぎる。戦前から戦時中を生きた教育者としてあまりに特異的な教育者であり、そして真の男であった。まずトットちゃんの入学面接のとき、死ぬ程手のかかる問題児であった彼女の、全くとりとめのないお話を4時間ぶっ続けで傾聴したエピソードからして常軌を逸しており、彼が子供たちの教育に魂を捧げる覚悟を持った人間であることがこの時点で示される。

 それからもトモエ学園では自分で授業の順番を選べたり、勉強が早めに終わったらお寺に散策へ行けたり、リトミックという音楽と身体の動きを合わせた教育手法をいち早く導入していたりと、令和の世でも中々挑戦的だなぁとなるレベルの教育が遥か古代に実践されているバグ光景が繰り広げられる。

 大河ドラマでは「こんなエピソードありえないだろ!」といったお話が挿入されたかと思ったら、実はちゃんと記録にも記されてある真実の出来事だった……といったことがしばしば起こるが、本作のトモエ学園絡みのエピソードは全てこんな感じである。もはや昭和に現れたチート級教育者である小林先生の無双譚……とでもいった趣すらあり、行儀のいい消費の仕方かは知らんがそういった面でも楽しくなってしまった。もしガキの頃からやり直せるとしたら、こんな学校に通ってみるのもいいなと思えた。

 徹子の入学後もトモエ学園の独自的な、しかし理論に裏打ちされた教育が実施され、徹子たち生徒はイキイキと育み成長していく。しかしそれを実践する教師陣も決して完璧人間という訳ではない。ある先生が悪気なく生徒の容姿をからかい、後で校長から咎められるエピソードがあったり、また小林先生も人知れず涙したり、感情を露わにする場面もある。先生たちは決して、この世界の問題の答えを全て知りつくした超人ではない。彼らも悩み、間違え、生徒と共に成長していく存在である。そういう面も提示される度に俺はグッとくるのだ。

 小林先生の他にも同級生の仲間たちや両親、楽団の指揮者などいろんな脇役たちが登場するが、その中で特にフューチャリングされている人物がいる。泰明君だ。泰明君は小児麻痺を患っており、自由時間の時は他の生徒と遊ばず黙々と本を読んでいた。そんな泰明君を徹子は気にかけ、交流を深めていく。そうした部分が原作から大きく脚色を加えられていて、一種のサブプロットと言えるまでに昇格している。

 これは実際、本作の実録物語としての側面を損なう判断ともいえる。部分的にではあるが、泰明君やその母親の視点の場面も挿入されており、徹子の自著伝という領分を超えてしまっているとも言える。それでも私はこの脚色を支持したい。黒柳徹子ご本人が監修した上でGoサインが出されたものと思われるし、それにこのトットちゃんと泰明君のガールミーツボーイ・エピソードは本当によくできている。 

 明るく爛漫な人物が引っ込み思案な子を引っ張っていくという構図は、関係性と呼ばれる代物のテンプレートであり、強固な王道である。トットちゃんが泰明君をプールに連れ出す場面、ポスターにもなってる木に登る場面、等など、ありがちな筋書きではあるが、上記の秀逸なアニメーションや、トモエ学園や人物の描写も相まってどれも胸を打つものになっている。特に俺は、普段は徹子→泰明の方向に手を差し伸べられていたのが、ある時泰明→徹子の方向に向く場面で思わずウルッとと来てしまった。

 小林先生はトットちゃんに「君は本当はいい子なんだよ」と優しく語りかける。そうだよ、本当にいい子だよ、じゃなかったら彼女は泰明君を外の明るい世界へ連れ出してあげなかったはずだ。そもそもこの映画、そこらへんのmobに至るまでいい人ばっかりだ。トットちゃん達の世界が優しさと希望に満ち溢れていた。ああそうだ、あの日までは。

太平洋戦争

 日本時間1941年12月8日、ハワイはオアフ島の真珠湾に停泊する米国艦隊に対し、大日本帝国軍は奇襲攻撃を行う。後に真珠湾攻撃と呼ばれるこの作戦で、米国側は民間人含め2400名を超える死者を数える。この攻撃を皮切りに太平洋戦争が始まった、日本は、中国との戦争が長引く中で、米英と直接事を構えるという状況に陥った。

 戦争が始まってまず「パパ、ママ」の呼び方を禁止された。それから少しずつ、全てが変わっていった。徹子の五感は、心は、変化を強いられ色褪せていく世界を記録していく。その描写の手つきの壮絶さに、私は心の底で呻いた。

 やはりと言うべきか、本作は「戦争」という要素を大きく取り上げていた。しかし戦争による死や荒廃は全然直接的に描写されておらず、増してや実際の戦場が舞台にされてもいない。それでも本作は戦争という行為の持つ核心的なものを抉ってみせている。例えばベトナム帰りのスタローンがたった1人だけの戦争を続けたように、また、パトレイバーの柘植行人が東京に戦争という状況をシミュレートしたように。

 本作における戦争の表現は、俺の語彙で言い表すならば"厭さ"とでも言うべきだろう。それはジャンプスケアなどの直接的な恐怖演出に頼らず、ジワジワと悪寒を誘う演出で勝負しているタイプのホラー映画のような代物だ。いや、「ホラー映画のような」ではない、部分的にはもうほとんどホラー映画そのものと言っていい。それくらい描写が真剣だ。

 最近『8番出口』というホラーゲームが流行っている。無限ループする駅の構内に閉じ込められたプレイヤーが、ポスターがおかしいとか黒い液体が滴っているといった異変を見つける事で脱出を計るという内容で、ホラーとしてとてもよくできている。今思えば、トットちゃんにおける戦争の表現は8番出口の演出に通ずるものがあった。これまで世界に当たり前にあったものが欠落したり、ありえないものがさも当たり前のように居座っている、そういう居心地の悪さが、淡々と、子供の目線から描写される。むろん異変から引き返しても、戦争から逃れることはできない。

 これは戦争が孕む根源的な負の面についての話だ。この時日本は率先して侵略行為を行っていたが、そうではなく侵略から命と尊厳を守るためのやむを得ぬ戦いであっても起こりうる話だろう。それは人間が物質的にも、精神的にも貧しくなることだ。闘いに勝つためには社会から無駄な贅肉をそぎ落とす事を強いられ、最低限の豊かさを受け止める器の容積が減りゆくのだ。

 そしてトモエ学園の生徒や理念こそ、小さくなった社会の器から追いやられる対象であった。小児麻痺を患う子供や、低身長など身体的コンプレックスを抱える子供もいる、また黒柳徹子自身も一種の発達障害を抱えているという。国や民草が勝利に邁進する中で、そんな生徒達は余分な贅肉である、穀潰しと罵られる対象となる。そんな世界でいいのか、戦争など認めてしまっていいのと、映画は静かに、切実に訴えていた。

過去から未来へ

 そして映画は、徹子達の幼少期の終わりを描きつつ幕を閉じる。果たして彼女たちは戦争の時代に押しつぶされてしまうのだろうか?だが我々が知っての通り、そうはならなかった。トットちゃんは戦争の時代をサヴァイヴし、成長し、いつしか大女優にして大タレント、黒柳徹子になった。無学ゆえ詳しくは知らないが数多くのドラマや舞台に出演し、冠番組の徹子の部屋は半世紀近くにわたって放送が続けられている。

 そうした果てに、トモエ学園時代の思い出を綴った著書『窓ぎわのトットちゃん』を出版した。日本中が涙につつまれ、とんでもない大ヒットとなった。おれはこの映画を観た当日、信頼を置いている友人に本作を興奮気味に勧めたが「これはおれの愛読書だ……」と返事された。トットちゃんがこれほどまでに広まっていたとは知らず、恥じ入るばかりであった。その後徹子はユニセフの親善大使となり、子供たちのため世界を飛び回っている。

 トモエ学園はそのほかに物理学者など著名な卒業生を輩出している。そして今やトモエ学園は廃校となってしまい、跡地にはイオングループのショップが建ち、その中に記念碑が残るのみとなっている。それでも、小林宗作らの遺した教育理念は今なお残り続けているはずだ。その証拠の一つが、おれの思い出の中にある。

 小林先生がリトミックを推し進めていたのを見て、俺はふと思い出した、私自身、幼稚園児の時代にリトミックの音楽教室に通っていたではないか。俺の人生の中にもまた、小林先生らが紡いできた教育理念が流れて事を実感して、私は嬉しい気持ちになった。

 そうして歴史は巡り、昭和から平成、令和の世に至ってこの映画は生まれた。当事者の数は少なくなっていき、今にも"過去"になりつつある時代の真実を描いた本作は、現代を生きるこの俺の心をも抉っていった。

 俺は1998年に生まれた、すでにバブルの熱は遠い昔のよう、経済は一向に成長する気配もなく、少子高齢化ばかりが加速する。2020年代に入ると病魔が世界を覆いつくし、ただでさえきな臭かった世界に新たな戦禍と対立が生まれ、そして、この国も他人事ではない、「先の大戦」という言葉がいつ過去のものになっても不思議ではない、そういう世界観を俺は持っている。だから世の中が悪い方向に進み、日常が色あせていく様が他人事ではないように、これからの世がボタンを掛け違えた先にある未来にある光景に思えてならなかった。

 あと、これは完全に俺事になってしまうのだが、俺は今年に入社したばかりの職場と色々と折り合いがつけられず、やがて鬱をこじらせ退職するに至っている。だから小学校を1年生で退学させられた徹子のことが、本当におこがましいのだが、どこか自分事のように感じらてしまっていた。そういう訳で、本作は心の底から刺さった。

 俺と似たような思いを抱えている若者はきっと少なくないと思う。だからこそご年配ばかりではなく、俺と同年代くらいの、年上共にゼット世代呼ばわりされている年代の方々こそ窓ぎわのトットちゃんを観てほしい。このどん詰まりに思える世界でも、希望を見いだして歩いていけることを徹子たちは身をもって教えてくれるはずだ。そしてこの作品が上映終了になってしまった後も。この映画をテレビのゴールデン帯で毎年ノーカットで放映してくれ、少なくともテレビ朝日にはそうする責務がある。俺が言いたいことは以上だ。


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