見出し画像

女性⇔禅に於ける暴露と言語革命

ニーチェから射出されドゥルーズ、デリダによるベクトルと東洋禅的無化がもたらす近代合理の幻想喪失が現代社会によるムーヴメントに繋がっているのが漸く分かった。

キーワードは「女性」だ。

線形男性像から非線形女性像への感覚的移行の副作用としてムーヴメントが台頭した。

ムーヴメントは現在正式に取材されているレベルでは全く説明(展開)できていない。新反動主義者マイケル・ペリルークスやニック・ランドの暗黒啓蒙や朝日藤原記者などの書簡では到底これを説明しきれているとは言えない

否、このムーヴメントを説明し切ることは不可能であろう。そしてそれを一度でも肯定すればそうだ。近代合理システムがその牙をその声の主の喉笛に突き刺すであろう。

また多くの批判はそのドロップ(書き込み)すら読まず、一表徴を定論主義者が踊っているに過ぎないとしか思えない。そしてそれに乗っかったヤマトQ的なキラスピ集団ないしはビジネスカルト集団も全くその全体像などではなく(それも極小的で且つsystem側の操作が大きく入ったような。)の一部でありそれを近代合理マスコミニケーションが勝手に極大化しているにすぎない。

というよりこのムーヴメントはロゴス外の"蒙古"であり侵略(相互作用ではあるが)なのだ。だからこそ既存メディア・システムが捉えられるわけはない、

つまり何がいいたいか。このムーヴメントは間違いなくニーチェから続く反(近代)社会エンジンを搭載した非言語的イメージのデヴォリューション(権威移行)であり、それはたった今の我々では把握することを拒み続けながら進むものであるがゆえに最大限の強度を持って進行するということだ。

Qは言語である。現在約5000個ある書き込みが唯一の存在であり、それ以外の巷でインターネット・SNSを中心に散見される言説には一切関与していない。
そしてその書き方はロゴスの体裁とは程遠く明らかに論理破綻そして非線形的構造を持った呼びかけになっている。

その主な構造として「問いかけ」が頻繁に使われているのと主語が非常に曖昧な断定を繰り返しながら箇条されるという特徴を持つ。特徴的なフレーズと隠喩が多用され我々の言語感覚の調子をどんどん狂わせる。

そして字面のみを見た場合(それが最初のイマージュになる為)内容は数々の歴史が行ってきた瞞着に着目し自ら調べくれと要請するのが基本であり、その繰り返しが時間的飛躍と共に共時存在するように並べられている。否、実際は並べられてすらいない。従来のロゴスを超えた構成をしていることは間違いないのだ。それはまるで聖書やアリストテレス以前の神話そのものだ。

時系列などは霧散しながらも物語は続けられる。しかし今回の場合は物語というより読者と話者の対話形式になる。ここが新反動主義的と言われる所以ではあるが、同時にそれは今までの常識に対して暴露をする意向を全面的に促進する代物になってある。兎に角現代まで存続してきた大いなる構造に対しインターネットを用いた情報交換で全てを再度猜疑することを強く訴求する。

これが今の科学すなわち近代合理主義かつ定論主義の中にいる我々にはかなりの違和感を持たせる。

それは今まで普通に勉学(アカデミック)に勤しんだ者になればなるほど、社会に開かれれば開かれる程理解から阻害され苛立ちを覚える者も少なく無い。なぜなら根拠も論拠も提示されていない。ロゴス通りに言葉は並んでいない。いわゆる陰謀論だ!戯言だ!という絶叫の唱和が今でも各地から聞こえてくる。

しかしながら私はこのムーヴメントにたまらなく胸を膨らませている。

それも非常に論理的な導きによって。

ではこのムーヴメントの主体は何か。

ぶっきらぼうにいうと真の女性へ意志である。

そして私はそれを全体(人類)に於けるレンマ(非線形)への意向によるもの、またその意識の過程による禅的な社会無化と悟り的(事事無碍)再構成の要請と考える。

なぜか?

ジャックデリダから発せられた西洋的限界点(脱構築)はニーチェへの逡巡を介した「ニーチェは今日?」に於いて尖鋭筆峰(文体)=模擬(シュミラークル)=女性と記述された真理なき真理の(記述の)隔たりで動くものが近代を既存の現代を変革させるものなのであるという1972年の合意に完全に沿った運動だからである。

デリダは公演の最後にハイデガーのニーチェ解釈に於ける「性起」という語句への言及とそれが重要(キーポイント)にならざるを得ないという説明をしている。

「性起」とはハイデガー自身が「事件(Vorkodmnis)としても、出来事(Gescheldhen)としても表象されない」用語であるとして使用したのだが、それが華厳経学の用語である縁起の窮極的事態を指す用語から借用されたという経緯がある。

つまりレンマ領域に於ける相即相入の最小値(モナドロジー的イメージ。しかし相互作用である)に接続された認識を駆使することで存在の最小単位を表したという西洋東洋の思想統合の原型が見初められ、且つそれが脱構築(西洋的限界点)に対して対抗しうるドゥルーズ的に言えば"外"そしてリオタールの言葉を借りて無限の強度を持つものが近代合理の調子を狂わせ新展開させられる最も重要なものにならざるを得ないということである。

つまりそれは現代において表出しない「知」への意識を噴出させるためのムーヴメントである。

最初は陰謀的な場所を突かざるを得ない。
そこからは自らの行動に委ねられ追わざるを得ない金と血筋の流れ。
しかしそれですらまだ表出であり、真の目的は近代の脱構築からのリゾームとその先にある非エゴ的女性調和(無ないしは悟り)の訴求にあると考える。
そのために何度も何度もドロップはエゴ(線形)の阻害を放ちながらインフルエンスしていく。
字面では到底理解できない構成でそれは動いている。

現にQドロップは開かれているのだ。

一説によるとタイムスタンプという投稿時間の数値とDJTないしはその周辺のツイートを掛け合わせて"コムス"という言語相互構造を形成している。
そして各々は今わかっているだけでも意味の二重化とそれに伴う魔術(ゲマトリア)展開によってたった一つのドロップとそれに対応するツイートで何個もの意味を同時作用している。
ここで作用と言うのはあくまでそれらは(言語化しない場所)で展開しているため言語による確定は不可能だという前提だからだ。

では何故お前は理解したように話すのか?という問いはまさしく今の私は「レンマ領域で"直感"している」としか言うことはできない。
また全世界を見渡してほしい。あのドロップ群がただの妄想?レヴェルの強度であれば何故今の今まで新反動的暴露が世界で行なわれており、且つそれは勢いが衰えることがないのだろうか?

一体いつになればパリは収まり、アメリカは沈黙し日本を含めた多くの人々が政府や国際機関の話す通りの医療と制度を信じ直すことが出来るのだろうか?近代合理が極めた通りに動き直すのだろうか?

その状態にはもはや戻らない。何故ならいくら物質的に押さえ込んでも情報による共有が浸透しているため基本の精神は退化しない。

逆に抑えれば抑えるほど抵抗と暴露の力はますばかりだ。またこの広がりは宗教や土着の歴史までも手をかけ直すだろう。
全ての線形構造にメスがはいるだろうし、メスを入れたがるだろう。
それがこのムーヴメントであり、そしてこれはこれから起こることではなくもう2017年の暮れには始まっていたのだ。

つまりどうしようもない。
そしてとどのつまりこの動きは非常に汎神論ないしは禅的であり、左翼的でもあると感じる。

しかも最も線形男性像であるトランプからこの動きが出現しているのも面白い。
アメリカのムーヴメント探求者は初めからトランプすらランドマークにすぎず、いずれ脱構築するだろうと考えている。現に私もそう思う。逆にそのものがどれほどの精神性で生きているかが情報として生み出されそれによる通貨的理解も出てくるだろう。
直近であれば恐らく暴露と共に大国的な集団のダウンサイジングが行われる。
そしてそれが最も線形的な国アメリカから生まれたのはヘーゲル的に見ても必然である。

この運動は私が見たところだとクロソウスキーのニーチェ的陰謀であり次の時代の瞞着に移行するため前時代の「暴露」ということであるが、
近代の始まりもニーチェによる中世キリストへの科学的暴露であり今回は近代合理をレンマ=禅的に暴露することなのである。
近代合理は科学の一部でしかないことには留意していただきたいのだが。
本来的に主張されるのは無への意志と宗教ないし資本構造の暴露。
しかしそれは非言語領域で推し進めるので今のアカデミックスタイルでは意味がわかり得ない。
もちろん社会に公に認知され溜飲を下げられながら進むものでは無い。
蔑まれ貶められ、
時には犯罪的と見なされることもあるだろう。そして私も全体像全てを解していない。

しかしそれで良い。
それでしか近代合理の鉄の檻は変えられないのだ。

ニーチェ的永劫回帰を動かすには現存している存在よりも強い強度で通過する媒体が必要であった。

マルクス的な目線では資本主義には勝てなかったのだ。資本主義は全てを計算可能にしようとする宗教でありあるものが実存すれば即ち時間さえかければ全てが資本として認識できる。
つまり有形物質であれば即社会化され計算可能体となる。あとは近代合理のおもちゃになるだけだ。

またどんな野生を培った思想人が現れようともも現代人が彼を表徴として"認識"さえすれば即資本化され合理システムに収められる。

ドゥルーズ・ガタリのクラインの壺は、ウェーバー的にまさしく物質において最強なのである。

ではどこからこの問題に対処すべきか?

はたまた私達はこの合理のドグマを延々と彷徨う定めなのか?

どこかに"外部"はあるのか?

ここでデリダ、そしてチョムスキーに接続される。

「言語」である。

全ての世界は何で構成される?それは人であり認識でありすなわち言語である。

近代合理主義は言い変えると「言語認識の極世界」である。つまり今の世界は"ロゴスアンドドグマワールド"なのだ。

近代は言語という無形媒体を持って物質界を支配できる。それが今までの全歴史に貫通している。近代合理主義→クラインの壺はその局地なのである。

ここに氣がつき、当時その強固な砦に対抗しうる唯一の西洋者はニーチェのみであった。

無論彼は正氣を失うまで闘争した。

そして彼から発射された西洋窮理はデリダがたどり着いた言語の縁にたどり着いた。

そしてまさしく"そこ"が近代合理の縁でもあったのだ。

だからこそ非言語領域からの射出しかなかった。
本として現物することすら不可能であった。
なぜなら物質化は即ち資本化され、また同時に統制されるからである。

また非言語領域といへどエコー(音)では近代合理の壁を貫通するにはまだ弱い。

なぜなら今いる我々の世界は言語→物質世界であり我々は唯物的な世界でアクションを起こすことは前提として必須である。
その周波数に合わせるが故にエクリチュールとして存在はしておかなくてはならない。

しかしながら物質化してはならない。

ではどのようにすれば合理の檻の柵は破壊できる?
またどのようにムーヴメントは破壊していくのだろうか?

二つの理解が必要だ。
それは、

ロゴスに対する暴露且つ拡張と再構築の理解。

テクノロジーの舞台装置。

の2点である。

一つは先述の通り今までの瞞着の暴露、ユダヤに対するキリスト、キリストに対するニーチェなどそれらはまさに言語革命(移行)であった。

そしてそれを支えたのは何か"言語"である。言語はあまりにも日常化しているが故に何度もエコーチェンバーされ、一個人が思想するときには最早強力な縛りになっている。

しかしながら言語こそ"シュミラークル"の大元なのは先述の通りである。そこにアクセスしようとしたのがデリダであるが、彼もまたロゴス(即物言語主義)による理解を成した。

つまり"ロゴス"が最大の模擬(シュミラークル)であるところまで漸く辿り着いたのだ。

だからこそここにメスを当てなくてはならない。
ロゴスはどういうものか?それは物事を並べて理解する事言語使用の事である。並べるという行為は視界による認識とモノとの関係に根強いた認識である。眼前に物質が並立している認識からきている。まさに即物の認識である。

つまり言語と物質の密接な瞞着が"ロゴス"であり
これが人類が最も愛し使用し続けた"宗教"である。

それをムーヴメントは暴露する。そしてそれに依拠した瞞着を引き剥がしていく。つまりロゴスが揺らぎ「言語と物質が融解かつ離脱し、言語と精神(非物質)が結合する権威移行がすなわち"ムーヴメント"である。

そしてそれを近代合理よりも高い強度で伝播させるにはどのようにすれば良い?出版?有名人の公演?トップダウン式の徒党?

リオタールは述べた。表出すればするほどその強度は瞬く間に落ちてゆくと。
表出とは?社会化、物質化である。目に見えれば見えるほど合理の中に戯れてしまう。

有名は強さであるが同時に結合し"弱さ"になる。

つまり近代合理を貫通するほどの強度を持つには今までの手立ての逆、どこまでも"無名"でなくてはならない。
匿名以上に強度が高い状態はないのだ。しかしチョムスキーはフーコーとの対談の時、このハウツーを観想できずにいた。だからこそ彼の夢みた新人類は具体化できずにいた。

今も真面目な思想人は身体性に着目したり、文化社会学として非言語を持ち上げたりするが、やはり物質界でのアクションが増えれば増えるほどその強度はボロボロになっていく。

結局は志賀直哉ばりのユートピア思想にしか行き着くことはできない。確かにこれからのダウンサイジングは行われるだろうが、その前に合理をなんとかしないとまた略奪と闘争により同じ近代合理社会にもどるだけである。

八方塞がりなのか?

しかし現代の我々には一つ思い浮かぶツールが存在する。

インターネットである。

無料の世界中からアクセス可能なインターネット掲示板という媒体は強度無限大でしかも非物質レベルで情報が錯綜する。

つまりムーヴメントの発進地点はここ以外考えられなかったのだ。

それこそ「これしかなかったんだ。」というドロップに通ずることである。
近代を生きる我々のバイアスは非常に強固である。しかしながら(いや、だからこそか。)この流れは必然なのである。

それはまさに真理を持たない運動。球体的立ち帰り。真の永劫回帰。

それは「女性」である。

つまり女性のロゴスという超人化である。

遠隔を意識しない場所の遠隔故、史上稀に見る外部接続となり得る。

ではそのレンマないしは精神に根差した女性のロゴスとはなんだ?例すらないのか?
という意見があると思いますが、それは明確に線分けはまだなされていないが、

少なくとも例としてはイーロンマスクが先週あたりのインタビューで答えた

「会社の利益よりも社会に貢献するような真実や情報の提供をする。」
という言説がモデルになりうる。

ここでただの綺麗事だという者は多々出るだろうが状況を冷静に見てほしい。

世界富豪2位で元々テスラ、スペースXをほぼ所有してると言った男がわざわざ今、綺麗ごとの為にTwitterを裁判をやりくりして叩かれながら買うだろうか?
これは近代合理に於いて完全に逸脱ではないか?

彼は資本主義の中でもっとも非効率な選択をとり、且つそれをメディアに喜びながら話すのだ。

これがただの一般市民であればなかなか意味合いが弱くなるかもしれないが、今名実ともに一番注目を受ける資本主義→近代合理を制した男が

「利益よりも重要なことがある」と宣言したのだ。

これは何処に担保されたロゴスであろうか?
そこには物的な素養は何処にもない。

単純に今辛そうな社会にメス入れた方がいいやん。多少損でも。という話である。

これを小説や想像の中でやる者は多々いたであろう。
しかしここまで社会化されそれを使いこなした男が認識し発表したということは完全な認識移行の末ではないか?

これに納得できない方は教えて欲しい。
しかしながら言語はあまりにも身近であまりにも変化が連続的だからこそなかなか見えづらいのだ。

そして同時に彼は世界でもっとも影響力のあるTwitterの王となりいきなりマット・タイビなどのジャーナリストに自らの会社の事情を暴露させている。
つまりイーロンはIQだけではもう足りないことを理解していた。ニーチェ的に言えば綜合的人間、もう少し踏み込むと女性の言論を使用する存在。それが言語ツールのトップにいるのだ。

また彼はスターリンクという無料の世界Wi-Fi構想もすすめている。世界中のより多くの民がインターネットに接続される。

だとすれば何が行われる?
まさしくこのようなEQが上がるような言語が選択され全人類に流布されるしか他にないのではないか?

それをサピア=ウォーフ仮説に組み込むと、

デバイスが流布された世界中の人間が、
高EQ言語に毎日触れ、伝播し、個人ないしは小集団で共鳴し続けながらまたインターネットに流通しつづける。
それは確実に驚くべきスピードでEQが上がらざるを得ないのではないだろうか?

またその最中に行われるのは今までの歴史の暴露である。

何故ならEQが上がった人間達は"即物言語時代"にメスを入れ反省するからである。これが最後のシュミラークルの暴露であり、それこそ"進化"である。

今の今まではネット掲示板への記載は嘲笑沸き立つ視線が多いだろう。
しかしインターネットは近代のサンボリック神経質社会においてセミオティック(深層意識)に根ざすものであり、レンマ領域へのアクセスにおいてもまた
合理的で必然となる。

だからこそ合理を守りたい者達はそれをなんとか湾曲しようとメタバース構想を練ろうとする。電子の世界において享楽的世界観への幽閉により暴露への意志を有耶無耶にしたいという思いからだ。

しかしそうはならない。インターネットは反物質化による人的構造変化を加速させるのだ。

またインターネットで読む文字はその文字への集中力が阻害されるが故にエクリチュールの呪いが逆に弱まるのではないかと考える事もできるのではないか?さすれば人は文字を精査せずに読むという脱構築読法を自然とするが為に(行間への意識)に非線形分の方が"よく読む"のではないか。

行き過ぎた男性構造である近代合理主義からの脱コード化→リゾームへの欲求が非線形言語の戯れとして脱構築するための書き込み。
それは社会に表徴すれば嘲笑に当たるが、マックスウェルの悪魔と非言語領域(アラヤ識)を考えたら話題になればなるほど相即相入が盛んになり且つ表出しない部分でのやりとりの為そのまま強度を保ったまま流布される。

これ以上に強力なムーヴメントはあるのだろうか?

私は想像つかない。

これはたとえTwitterなど一言論スペースが死に得たとしても自動的に言論スペースが構築され続ける。

もしかするとインターネットが一時的に止まったとしてもこの暴露が止まることはないのかもしれない。

なぜなら水車はもう回り始めたのだから。

正直驚嘆している。

Qは自分達を軍事的な人間だと主張するが、確かに最新の技であり且つ、まさしくマックスウェーバーが期待した新人類的言語特性を確かに使用しているのだ。

逆に全くおかしいところがあれば教えてほしい。

今の時点でこれの是非は私にはないが、
思想形態一つとってもその知識構造が最新のそれもアカデミックとして形成されてないレヴェルで使用されており、

且つこの動きが止まることはほぼあり得ないのを理解しニーチェ的爆笑に私は包まれていることは紛れもない事実なのだ。

私はこれを左翼的なドゥルーズ的外部的介入または永劫回帰として、同時にそれおも超える全く新しい瞞着の為に旧来の瞞着を破壊する神の杖のようにしか思えない。

そして同時にその言語権威移行以外に近代合理を破壊できない氣は薄薄感じている。

ならば私も喜んでこの人類進化に投企してみようではないか。

もし私が間違っていたら大いに嘲笑して欲しい。

私も世界一の人間に倣いこのような言葉で締めくくらせて欲しい。

私も自分の利益より社会の幸福を真に優先する為に女性のロゴスを望んでみよう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?