しゃべれる限度があるはずなんだ

小言になってしまうのだけど。ふと思ったことを挙げて、そこから勝手に広がっていく話が書けたらなと思って。

以前の社会では、他人の話に聞き耳立てるのは行儀の悪いことだった。同時に他人に話の内容がわかってしまうように喋るのも行儀の悪いことだった。今はそうではなくなった。

要は、気にすんな&うるせえなぁと感じるようになった。建物の音の反射が大きくなったり、ネットスマホ時代になって情報の外に出られなくなってしまったのは外部要因だと思う。それだけでなく、喋ることの行儀が悪くなっていると思う。きっちりと、かつてと今を並べて確認することはできないのだけれど。


変化の時はいつ頃かなと考えるのだけど、携帯電話が一気に普及したところが崩壊地点だった気がしている。その前段階に、電車内で化粧をする女性が問題になっていた。要するに他人の無視に腹が立ったわけだ。人前でするもんじゃないという感覚があるので、電車内にいる人は人扱いされていないような、泥をぬられるような嫌な気分になったと。それに腹を立てた男性サラリーマンも、携帯電話が普及したら、車内で使って迷惑がられた。あれも同じで、人前でするかよということを人前でするので、周りは侮辱されたような気になるしうるさい。

こんな風に、公共の場が壊れていったと思う。壊れていったということはそれ以前は成り立っていたわけだ。何がというと、みんなの場所であれば逆に各人には制限があったわけだ。場作りって話をよく聞くけど、グローバルが入ってくる前の日本に当たり前にあったものを取り戻すことでもあるよなと。


公共性というか、なんでこれほど見られていることが見えなくなってしまったのか?読書のしかたでもいつか書いたけど、そことは別の話を。

スマホ普及で見られることに慣れた世間が広まったと思う。80年代から有名人の素人化が始まった、それの普及時代がやってきた。その社会では、「お前を露出せよ」となった。そういう生き方になる。「そんな人生において自己を実現するためには」というテーマが生まれる。(時代状況が限定されていることが気になるが)

なぜ私に成らなければならなくなったのか? 私に成らなくてもそもそも自分はあるのだが、成らなければ私になれない時代になったのはなぜか?

露出人類的な私個人は、多くの場合無添加状態では手にできない。出たがり以外は、自然とそんなことはできないからだ。みんながみんなお調子者なわけではないし、承認されなければ消えてしまうわけでもない。出なくても済む人はいる。自分はもういるのに、私になるための演技をして、当たり役を手に入れなければならない。ねばならないという強制が恐ろしい上に不毛感なのだ。そのために、それ用の現代様式の「自己実現」が語られていく。


えーとなんだっけ話は。うるさいということね。インターネットの時代になって言葉が人を怒らせることが増えすぎた。態度で人を怒らせることもあるけど、言葉で人が怒ることがかなり増えた。

同時に態度で喜ばせることが減ったのかもしれない。つまりそういうことで、人に囲まれている人たちがよく思えるのかもしれない。態度で人を喜ばせる間柄を持っていると。この辺りが、取り戻せ公共の場:場づくり、と一致するところだと思う。


2010年代までは出たがりは発言をし、態度や質はどうあっても、埋もれないで生きていけば出なきゃならない。存在圧を持ってしまう状態だった。「世界の」右傾化は、「君もやればできる」が埋めてきた人々の怒りや恨みが噴出している状態で、別に保守思想なわけじゃない。単にリベラルへの恨みが高いだけだ。こうなるともう、政治的な考えや発言が改善のために使われることができなくなってしまう。格差問題はもう破滅段階に来てしまった。

といっているところにこう言ったら火に油系なのだが、〈学者〉の論じることに(A,B,C,,,,)、オーディエンスがもっともっと多くないといけない。ビジネスマンの話じゃなくてねということ。また市民は、それについていけるくらいの学問の力を持っていないといけない。

今は「学問ではなく実学」が大きな顔をしている。「露出し成功せよ」と啓蒙する。

ネットで人が繋がるのではなくて、言葉でつながるのだから。 道具の問題ではないのだよね。説明と理解のやり取りじゃなくて、繋がりにより差異がとけるのが繋がったということだし。 ビジネスで語られるコミュニケーション論がそもそも生き物的にはおかしなものになっているのよ。 言葉を積み上げて建てていくという伝達問題よりも、言葉や意味がなくなっていく無音の舞台へ向かおうとするのが本当のコミュニケーションでしょ。うるさいと無理。

まさかそのウォーク自身:加速の左派が反対の右傾化をリードしているなどとは思いもよらないだろうけど、加速の左派右派ともに実学ノウハウ化の正体を理解できるためにも、学問は必要になる。


話がずいぶん振れて飛んでいってしまったが、理由理由、価値価値、意味意味、うるっさい!欲しがらせと欲しがりが人工的に制御され切って中毒している。ドーパミンとアドレナリンをください情報さま!になってしまった。それでAI に何を期待するというのか? 昔の言い方すると、大衆全域が電波にクラウド接続されてコントロールされるようになってしまったと。

資本主義陣営の勝利は経済の勝利で、人民をどれだけ働かせることができるか勝負に勝った!という面があり、グローバルではそのまま頭に乗ってしまったねという行き過ぎだ。働け、芯まで尽くせ、これが自己実現を要請している。わかっててやるもんじゃないよ。

画面も人生も、マーケティングの舞台になってしまったね。もはやそれは自由では語れず、倫理の問題になった。街で見かける人々も、己の自由拡大よりも倫理浸透が必要になっているのは、枠の大小が変わっても同じなのだ。

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