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メディア人間

文字だと「話半分」の受け取りがやりやすい。それに勝手に取りこぼす分もある。しかしそれ以外で主だったもの、画像、動画、音声。これらは「話半分」の反応をしにくい。音声などは取りこぼすことよりも違う解釈がおおい。文字は認知系の処理だが、聞き言葉は運動系の処理だからだろう。ファスト回路の担当ということだ。画も、食事の写真を見て、食品サンプルを見た時とは反応が違うだろう。話半分的な挙動は後者だ。


世の中が、あまり本物っぽく思えなくなってしまった。釣りやのら仕事、山歩きなどでフィールドにまみれていると、ないものを感じていく。それを頼りに反応していく。こういった全く写真に映らない、映ったとしてもタグづけしてもらわなければAIには何も判断できないようなものの方が、本当らしき話半分な感覚で現実を測れている気がする。まとめてある情報を手っ取り早く欲しがる態度も、ニセの大人のように思えてしまう。ただ、ニセの世界に浸れることが人間であることなのかもしれない。


優しくしなければ処罰される。感情一揆が立ち上がる。おそろしいやさしさ社会に向かい、ディストピア小説化してきた。ある教育を受けた世代がウェブメディアで活躍してくると、そうではない世代やそうは思わない人たちにまで、自分達の感覚に合わせた反応を押し付けてくる。自分達が向けられている閉塞感は、自分達の挙動が鏡に反射したものだと気付いていない。不安げな世界観がどんどん壁をこえて広がっていき、不安社会を笑顔で生きる時代へと革命を起こそうとしている。

これからどんどん杭が打たれて閉塞感を増してくる。セカイ観に合わせて、顔色をうかがって顔だけで笑って自分をキャラに閉じ込めて、そうしていこうとしている社会の風潮は自滅に向かっているとしか思えない。ビッグブラザーに監視され、すばらしい新世界に生きなければならなくなっていくのだ。個人の攻撃力は低下していく時代に好感をもつかもしれないが、呪いの力のような笑顔の群衆化の方が恐ろしい。将来の介護現場では、給食を投げ飛ばしラテを要求するようになるだろう。私を笑顔にさせなければ許さない。人間といういい方は廃れ、顧客と呼び合うようになる。


最近、村田沙耶香を読みだして、そんな気分になる時があるんだよね。

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