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12月4日

映画 ゴジラ−1・0をみた。シリアスな映画だ。ポップコーンは塩味派の僕には合う映画だった。主な舞台は終戦直後の東京。主な登場人物は、戦争を生き残った人たち。家に帰ってきて色々と考えている。

あれこれ書いたけど消した。とりとめがない。それでもまた再び、あれこれと言葉が出てきて書いたのだけれど、これもとりとめがないのでまた消した。この流れでそれを書かなくてもいい。

根拠などは長くなるので書かないけれど、今は50~60年代に似てきていると感じる。少し前の15年代は、60~70年代に似ていると感じていた。政治と環境の季節だった。今の社会はSっ気を増してきている。この時代にあれだけ目立つ、領土拡大のために戦争を仕掛けるわがまま野郎が現れるなんて、この数十年の感覚では信じられないものだ。よって、この時代にリアリティのある映画だった。


今は性のSMに関しての理解を深めている。行為としてではなく、精神分析やサガとしてのもので。またこれは、分業ではなく手分けの世界だと考えている。

グローバル世界はアメリカの世界観が強く、今は軸になっていると思う。その状況が変わってきて、色々と洗い直して考えなければならなくなった。少なくとも僕の人生はそうだ。

話の流れから逸れるが、現代人の人生は、人それぞれの曲のサビを響かせようとしている。個人になったからだ。デフォルトは仕組み通りにやること。例が学歴社会を着実に進むこと。またサビが間に合うようにサポートする意識は社会にある。サビが止まってしまった人はイントロを持っているから再起ができるが、イントロを持たなかったものが再起するには大変タフなものになっている。

グローバル世界は分業:合理化・フォーディズムで作られており、日本のM気質と違う。日本のものは相互扶助:手分けする事に燃えてしまうのだ。(結局2回書いて消したのと変わらない話になっている) 手分け出来るんだぜ。という者が心を弱めてしまう失われた現状。

この映画は、この時代の日本の再起があるならこのような力だろうと思わせる。西洋にしても、この時代の問題、フェミニズムやLGBTQ、格差などの帝国型問題、人間目線からの脱却などのためには破らなければならない構造があり、だとすればどんなMでいくかを示すのではないかと思う。

手分けの復権は、横断型の要素を高めたい現代に高めていかなければいけない意識なのだと思う。

ヘンな日記になってしまったけど、終わり。

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