エシカルってなんだろう

エシカルは倫理、または倫理学なのだそうだ。そしてリンリ学はリンリと違うらしい。英語では倫理も倫理学もエシカルというらしく、日本は「学」がついて区別できるので、その点ではとても助かるらしい。

なぜか?

倫理学は倫理を磨くために倫理に突っ込みを入れたりする。倫理のなかよし味方という立ち位置ではない。でも敵じゃない。厳しいことを言ってくれる師のようなものだ。その倫理よりも先の倫理へなのだ。

これは何度も言うと思うが、「誰の味方もしない学問は信用できる」。裏切られるとはないし、数年後に内容物は変わることがあっても、学んだ能力は変わらない。


ところで道徳と倫理の違いは何か?専門家でもどう説明しようかと考えるようなものらしい。一つとして僕の意見を言おう。ただし言葉ではくっきりしてしまうけれど、→ぼやけた雰囲気が本当だ・・・・・・・・・・・。← 『〜だ!とソリッドに受け取らないこと』

道徳は西洋文化の中世でも近代でもどちらにも共有できる下部構造のようなもの。でも近代になって修正しなければならなくなった。道徳ベースのものが倫理。

道徳は多くの学者が説く通り、ファスト:直感に当たるもの。論理は修正をしたものなのでスロー:理性になる。

道徳は生きることの務めみたいなものかもだが、倫理は粋に近い。道徳は「神の問題だ」みがあるけど、倫理は「自分の問題だ」だろう。


エシカルは正しさじゃない。あり方だ。

自分の問題だといっても、自分に都合良いような合理化ではなく、3人称的。人々にとって良いと思われることを自分がやるかどうかといった意味の、自分の問題だ。 『〜だ!とソリッドに受け取らないこと』 正しさじゃない。

レベル1を例えば。・ガラガラの駐車場でもいつもと同じように、枠に合わせる工程は端折らないでいる。・20工程やる仕事でどうせわからないからと考え工程を減らそうとせず、そういうものだからと淡々と20工程やる。こういった、自分の問題だからというもの。

全体側から見た「そういうことだ」ではなく、私の人生から見た3人称的良い人の生き方とはが、エシカルだ。

エシカルなことが増えるのには賛成なのだが、エシカル教になってはリンリもリンリ学もがっかりなのだ。戻っちゃうの?と。

まず初めに三猿の能動版だろうか。見せず、言わず、鵜呑みなし。といった態度で、粋であろうとすること。シャッとして生きよう。シュッとした人になろう。

おっけい。おわり。

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