書評が書けなかった
以前、書評が書けなかった。今でも書けない。というか今は書けなかった理由がわかる。なので再挑戦したら、書けるかもしれない。訓練の後にだな。
書評の書き方の話じゃない。書評が書けない理由を書いてみようと思う。いまは即興的に書いている。では、本題。
僕は確信がなかったから、書けなかったのだ。この確信は、自分のメゾ知と言えるようなものだ。この説明をしないといけないが、ひとまずそれは後で。確信とはおよそ結論のことで、いくつかの結論を持って世の中なりそのジャンル内なりを分析判断できるようにならないと、自分なりの解説がうまくいかないのだ。
ただし、この確信・結論は絶対なものではない。僕の持論・確信・結論でも、他にもう一つある。憑依するキャラクターを持つこと。書評で言うなら、「私は書評家」と思っていることで、書評家活動がはじまるというもの。ただ、僕の場合はこっちではない。話を確信に戻そう。
この確信・結論は、自前のものならおそらくよりよい。僕はそう考える。ただ、自前でなくても確信があるのなら、分析や判断ができる。応用の基準点になるわけだ。
僕の場合はこれを自前で作ってきた。なので時間はかかった。ただこういったことに気がついて、そこから先は判断がはっきりしたし、基準点にブレがなくなっていた。こうなれば自分なりの書評もかけるだろう。
それ以前であればそれは書評ではなく感想文になる。それはそれでいいかもしれないが、今考えるとかなりテクニカルだし、逆に創作度が高い。というか創作でしかないし、かつ非常につかみにくいものだ。全部が動いてしまう。基準点がないのだから。
そうね、ぬるぬるローションの上で動きを表現しようとしてもそれはそれだけど、僕の表現したい動きはそれじゃないんだ!!!!!!と思うくせにどうしたらいいかもわからないでいる状態、だったのだよなと。
自分なりの結論をいくつか披露する。・最大サイズから考え始めろ ・感情は自前でなければならない などだ。結構当たり前な結論がそろう。
こういったものがいくつか思考の基準点か交差点として身についていたら、そこからオリジナルで、対象を分析・判断していける。僕は結果としてこれを手に入れたのは、基礎学問の再挑戦だった。およそ高校までにやるような教科だ。それと趣味レベルで哲学や現代思想の一部を読んでいた。
あるとき自分なりの結論がいくつかあることに気がついて、そこから状態が全く変わったと感じた。基礎の勉強って人生レベルで大事だなぁと思った。ほんと、悪いことはないので基礎学問の復習はすすめます。時間はかかるけれど、端折れないよ。早くはじめたものが早く良くなる。
上を読み返してメゾ知の説明をしていなかったなと。メゾ知とは僕が勝手に言っているもの。ヒトの人生に近いサイズの知のこと。ミクロ知は実用知など。マクロ知は、かつてなら民族的な知で、受け継いでいくために自分よりも長い時間の知だ。
このマクロ知は今、それでいいのかどうかはともかく、けっこうな割合でインターネットに置き換わっている。メゾ知とは、家政学・衣食住に関することや家計的な知、それや心身の健康管理みたいなこと。あとは基礎学問などもそうだし。生きていたら接点があるでしょうという知。
さすがに今、ミクロ知・実用知が盛んに学ばれているとはいえ、メゾ知を全く無視していては安心できない。
そうなんだけどここを続けるとこれで1話分の文量になるし、今回はこのくらいで。
書評を書くためのテクニックを学んでもやり続けられなかった人は、こういった「確信・結論」を持つということを見直してみてはどうでしょうか。書評に限らない力になるでしょうし。
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