メタバースってこういうこと?

メタバースとはなにか、はっきりしない。例えば「社会」は僕ら知っているけれど、何か説明してと言われたら?

らしい要素を上げていくけども、一言では難しいというか無理くさい。それと似ている。それにまだ、「構想」部分が大きいのだろうし。だけど細かいことは無視して、進んでしまう。


メタバースに感じられる未来は?

ビジネス的には期待は高いかもしれない。企画、アイデアの出しどころが生まれるわけで、仮想地球が新しくできますよみたいなものだ。それはもう盛り上がるに違いない。それもいいけど、現実的な部分にこれからぶち当たるのだし、僕は様子見。また、色々と不安も大きいがこの話ではそこは考えない。

個人的に期待ができる点は「ネットの終焉」だ。メタバースについて知り、考えていくと、現在のインターネット時代の問題が浮き出てくる。「ネット時代」と「メタバース時代」を仮想的に比較できるからだ。


例えば今現在の何が問題なのか?

ネット時代は思考に身体性がなくなっていた。これはネット時代というよりもおそらくもう少し幅が広くて、8-90年代くらいからか。それまでは玄関でセールスを断っていたのがテレビや雑誌の広告が玄関を越えて入ってきて、テレビコマーシャルに節操がなくなってきた80年代くらいからこうなりだしたのではと。画面の前に動かないで座って、何かを知っていくことが当たり前になってからだ。一般教養科目:考えるための下地とは別のものだ。

70年代あたりまでは多くの人々が持っていたものがあり、それが薄れてしまったが、またこれから進化が加速して戻ってくるのではという期待。元に戻るということではなく、進むことで加わる厚みがあり、結果的にそれが戻ってくるのではと考えている。

(進化、、、というよりかは既存の何かが淘汰され状況が進行していくという見方が現実ベースだと考えている。つまり「進化論」というタイトルじゃなく「淘汰論」の方が腹落ちしやすいと思うけど、ちょっと危なくなる)


ネット時代には「偶然」が小さくなっていた。「奇遇」だね!が絶滅的というか、人工的になっていた。

まずこれほど一人一人がプロフィールを掲げるなんてことはなかった。プロフィールを見たら「同郷だ」と会って話す前に知っていることもあるし、むしろしないと勉強不足で失礼と思われることだってある。

それにアルゴリズムの媒介が間に入る。相性が良いと結果が出ているもの同士を、わかっていてつなげる。物も人もだ。これまで偶然な出来事だったものが、機械や機関が間に思い切り入っている。この時代の「奇遇」は以前の奇遇と違う意味になっているのではないか。

偶然、奇遇が必然に侵攻されている。未来が過去に決められるにしてもあまりに機械に操作されている。

ネットに接すると、思考から空間性や身体性がなくなる。時間幅がなく反射的になる。これは考える空間ではない。平面的だ。

例えばzoom会議で個人が背景をつける。あれは一体感をぶっ壊す。影響力論では背景力を高めるべきだろう。でも上下だ。メタバースでは全員が同じ空間にいるという設定の中で話すことができる。今されているラポール形成だとかの話の中には、この先無駄になってくるものもあるかもしれない。

さらに、心理を整えること、心理学そういったものも決定的に変化が起きるだろう。現実場面で心理的な偏りがあるとき、現実場面の診断で、メタバースに行き治療を勧めることも起こり得る。別の人格を疑似体験できるからだ。

心理学といっても色々で、心理学などを利用したビジネスだとかで依存症ビジネスと言われてしまうような物もあり、良い方に考えれば、メタバース時代でメッキが剥がれる。

心理学には体がないことがある。体があるのは精神分析だろう。体がない場合のある心理学は、体のない社会だとか集団だとかに相性が良いのだろうけど、一般的には個人に向けられている。訓練を受けていない人がビジネスで。


「言語」がいくらか、理想世界から現実に戻ってくるのではないか。アバターを持つからだ。人格は何物かを媒介して現れる。人形劇をしていれば、人形に「私」は入る。その時本体に「私」いない。「私」は「私の身体」から抜け出すことができる。これの論もあるようだが僕はまだ知らない。でも「暗黙知の次元」で言われていたことはこういうことだったかと気づいた。

ところで、映画を見ているときに、あまりに他人事のように「座っていて休んでいる、休まる」「画面だなあ」と思ったり、インスタグラムを見て「野菜を見て何をしたらいいんだっけ?」なんて思っているのなら、私はまだ私の身体の中にいる。

「私」は物体的な存在または擬似の存在の器に入り込む。映画なら映画空間や人物に私が行っている。それはまだ人物だけれど、いい風景の写真に入り込んだら「私」は地縛状態になるのではないか。「ここがいい」と私はその土地に縛られてしまう。「私」が吸着してしまったと。

またテキストでは時間の意識がなければ過去と未来は思い浮かべても今現在だけが抜け落ちる。「そうだったんだ」「そうなるんだね」と。今やることとか行程の難度だとかは後回しになって。


画面を見ている時、私の身体に私はいない。インターネットに写るものに吸着する。でも空間的ではない。体を持っている存在というテイが考えに入っていないこともある。

メタバースは設定次第かもしれないが、思考にも体があるというテイを持たせることができるのかもしれない。今、インターネットの影響の強さを遮断することはもうできないだろうから、実情これが人類にとってましなのではと思う。

現代人に多い思考の偏りを矯正するのにいいかもしれない。例えば今ならニューロフィードバックでやるようなことを、メタバース環境で促せられる。いくつかのキャラを体験することで、人格のこまるほどの偏りを修正できるのではと。

また教養的な意味でも、スタンドポイントを増やすことができるかもしれない。幅広い立場で考えることができれば知識を体系的に扱えるようになるだろう。この変身を脳科学だとかでいうと、部位の刺激を電気的に起こしてということになり、ニューロフィードバックになる。と思う。



今メディアに魅了されてかつ身体が放置されているこの数十年の危機的人類が、メタバースによってネット時代を終わらせられるかもという期待。身体のない論理を先に組んでから、現実空間に互換するのかどうか試していくような時代を直せるのではと感じさせるのだ。出来ないピラミッド建築計画に巻き込まれる大衆の負担を減らせる。ネットの活用は下手をすると、現(うつつ)を抜かす人間の増殖にもなるのだ。

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