頭痛病院でカットしてきた
普段人と会話をする機会がなく、今年何度目だろう、多分五回目くらいに話をした。そのおかげか、帰ってきて疲れているが、めずらしく歌謡曲をかけて歌っている。
僕にとって面白いこととは、面白くなれるまでの努力があったもの。子供なだけの遊びではない。そもそもそういった子供仲間なんかいない時が多かった。そのおかげか、山の中で感じ取りながら、何をしたらいいのか勝手にやれる。
今立て続けに2冊、村田沙耶香を読んでいる。村田沙耶香の小説は日常と狂気の間に立ち、僕の中に埋もれて出てこない狂気が小説を読む僕の後ろで成仏していく。振動している。マイクロウェーブを浴びている。そういった恐ろしさも感じながら。
現代人のその「こだわり」。そして必死に必死にキャラを演じているところ。そういった違和感空間にも、村田作品は効いてくれる。人は画面を通ると、なにかがおかしくなる。貞子化する。だけどみんなしてトビラから出ていったので、もうこちら側を忘れてしまった。
いくらか斜に構えた人との会話の方が、視野の外に現実が見えているように思えてきたりする。歌謡曲の歌詞がリアルな言葉に思えたりする。実際にそんな言葉で会話されたら何をいっているのかわかるわけないのに。だけど歌には過去未来がない。何十年前に聞いた歌でも、変わらずに震えるものがある。文学にもある。
そのように僕は、ほんとうに欲しいものは一つしかないと思えていて、そのために世界AとBの両方にまたがれなければならない。村田作品はそれに向かって現状を少しずつ壊していく。木を彫刻していくように、切り落とし指先に感じ取る違和感をいつまでも落とし続けて、でもたぶん完成しない。そういう予感。完成は削りすぎてなくなった時かもしれない。その時はきっと僕はいない。
他人の誰の世界設定、私プログラムなんてわからないでしょ?自分の設定はわかるのだろうか。僕はやっぱりわからない。僕は、ドーナツかというくらい真ん中が抜けてしまっているものに秘かに共感する。熱のないものがどこか内部にある。そしてドーナツの真ん中から、能動性がやってくる。これが自分のソウルな気がしている。
論理的なものの裏面をよく読むと、期限切れのものだらけ。これを使えばうまくいくというのだが、うまくいく人はすぐに卒業した。うまくいかない人たちが居残っている。なぜこれほど、アルゴリズムにへりくだるのだろう。そっちの方が論理的に完璧に思えるのだろう。だけど完璧に近づけば、自分の正体はほとんどなくなる。ドーナツの穴が針の穴になってほとんど通れない。
村田沙耶香の、そうしなければ生き残ることができなかった何かが滲んできて、救われるし助けられる。狂気に救われるなんて世間ではいわないけど、実際は元々に戻るだけなのだから。椎名林檎も、正気って狂気なんだと、そんな勘違いをしていたと気づいたから自分になれたと言わんとするところ、そうやって今までろくに生きていなかった遅れに、気が狂わされそうになるところが救われる。
僕はのんびりした人間なんだ。盛り上がれば盛り上がるほど、正気のラポールに気絶しそうな恐ろしさが湧いてくる。静かにしたい。静けさが落ち着けるのだ。自然さんはそうだろ。
ぼそぼそと少し話をして。お譲りします。お構いなく。いくらかお手伝いいたしましょう。
厨二じゃない魂なんてどこにあるんだ。流れるプールは終わらないと誰もが思っている。正気な者ほど狂ってるじゃないか。
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