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虹のかなた

マイカーで旅をしてきた。関東から四国に向かい、しまなみ海道から四国を西に一周した。そして津和野から島根県の海沿いを走った。これまで北に行くことが多く、はじめての土地が多かった。

車で旅をする回数はだいぶ減ったし、スケールも小さかった。コロナの影響もあるけれど、それ以前の数年前から、「環境」もあって、だいぶ減っていた。

今回旅をしてみて、以前はわからなかったことも感じるようになっていた。今回は具体的なことではなく、時代的なこととかぼんやりした掴みようのない感覚の話にする。


若者が車を持たない乗らない傾向だと聞く。地方には車がないと行きにくいところだらけだ。まだまだ自動運転の時代は先だろうし、情報状の変化に実態が圧倒的に追いついていないと思った。当たり前なのだけども。

最近勉強仲間に色々と変化があり、学問の道から逸れていくのかと思った。旅の前にそれに関して考えていた。マーケティングといっても幅がかなり広いが「おすすめ術」でもあるし、扱う人の心得によっては問題にもなりうる。そこで気がついたことがあって。

脳科学が流行った時にマーケティングを学んでいたら当たり前で知っていることを、今では知らないようだった。「情報状と物質状とでは話が違う」ことに関して。この辺りを勘違いしてしまうと、自治体運営だとか実店舗経営だとか、自転車操業になって空振る。

実際にはきっちりと分離できないことがほとんどだと思うが、ただ一回、分離してモノを見て、それから考えないと混乱なままに進むと思う。マーケティングで言えば、空間に存在するものを考える時、会計的な思考が先立つ方が賢明だ。人々が伝えあっている話も同様で、正体が曖昧なままだ。

地域の事情でも、人間ひとりのスケールで眺めたものがないとまるで噛み合わない話になってしまう。だから行って眺めてみないといけないのだ。行ってみたら情報と違うということの方がほとんどなのに。


地方は車生活だ。車で走らないと当地の暮らしの動きもわからない。地域研究に行ってもお客さん扱いされていたら生活なんかわからないし。そこを走ってみたら地理的空間の影響や地学的事情の影響などが見えてくる。

町と農村の間に住んで、1次産業、2次産業に従事している場合は多いと思う。雪に閉ざされる地域もある。街との関係も東京地方と違い、年間通した安定はそこまでないのではと思う。町人は町人まちにいるといった傾向をいくらか意識しないと見誤るのではと思う。

田舎は、都市生活を否定的にみた世捨て人が集まるところじゃない。未来を強く志向した生き方ばかりではないし、むしろそういう人は田舎から出ていく傾向だろう。土地に残る人がどういう性格なのか。それとどこに行っても変わらないと思うが、多くの人はふつうに暮らしたいと思うだけだ。


正義や手柄、不満解消のために、思いやりを忘れている時代になっているのではないか。メジャー側もカウンター側も。

政治が無能だとか、意識が鈍臭いからだみたいな、なにか原因らしきものをなじる心でよい暮らしが作れるのだろうか?こんな話よりも、当地に暮らす人に寄り添った見方をした方が実があるのではないか?画面に見える情報界は「東京の話」度が高くないか?地方が高齢化しているというのにおじいちゃんおばあちゃんをパスして若者による若者のための社会を指向していて、何か本当に大事な心を失っているように感じるのはおかしなことなのだろうか?

世の中、グーとパーで戦っているみたいだ。チョキの立場は排除されている。こんなんで平等の権利だのマイノリティだのとかたるのだから。


想像の外に出ることがあまりなくなっている。


精神分析に目を通して、僕なりの解釈なのだけど、こういった理解をした。(女性性は)女は海の向こうに今とは違う暮らしがあると思う。(男性性)男は山の向こうにもここと同じような暮らしがあると考える。

実際にはどちらともいえない。今とは違うけれど大体で言ったらどこに住んでも同じでもある。だけど今の自分の想像や考えの外に行く頻度がその人の世界観を広げる。

情報を見ていってみようと思うのではなく、適当にいってみること。想像していないところに行ってみて、想像と違うものと出会って、想定外の縁やシンパシーを手に入れること。こういった動きが減ってきているのだ。画面からのお誘いに従うことが増えているし、自由度と移動力の高い道具を手にしないのだから。


東京から虹のかなたに行ってみたら、大阪なのかもしれない。違うけれど似たような世界がそこにあるかもしれない。こことはまるで違った世界だなんて保証なんか虹の向こうにあるわけではない。わかるわけないが実際に行ってみたらわかる。でもその世界に生きる生活があって、ふつうに生きる健気さを知ったら、どこでも生きていける気がするのではないだろうか。

地域の風土を眺めて、どの地域もスーパーフラット化してしまうことが悲しい。そういった大きな力に、もう少し何か、この地域の事情も加味してもらいたいと思ってしまう。

同時に、情報がスーパーフラット化している。みんな同じことをいう。外国の成功例や、成功した地域の方法など、どこにでも当てはまるという前提で語られている気がしてしまう。これが正しいのだといったふうに。そんな強引なことはやめてほしい。風土性が壊れてしまう。


人の意識は交流などで変えられても土地の大きな事情までは変わらない。その変化を達成させるために、開発も意識の開発も強引に進めるなんて、人に対しても土地に対しても帝国的な態度ではないか。そういう強引な握力には反対する。「現代に人間が生きていること」なんて、大昔の人々から見たらどこも大差ない世界観なのではないだろうか。

暮らしの向上だとかよりも、食べているものが柔らかくなって飲み込みやすくなっただとか、画面の鏡像の幻覚の方がよほどの暮らしの変化なのではと思ったりする。

当地のスーパーなどに行くと、家庭で食べられている味が擬似体験できる。各地でかなり差が出る。こういったことを分析的に考えてみると、土地の空間、地理的地学的な事情に大きく影響を受けているとわかる。こういった特色が日本の地域の特色なのではないだろうか?


生き物の動き。例えば蝶などの多くは、ランダムに動いてみて条件と出会う。人間もこういった自然な動きを時々してみたらいいのではと思う。情報にお薦めされていたらランダムな挙動を失ってしまう。

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