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トゥルスキー・トカレヴァ1930/33・改

 わたくしは祈ります。祈り、祈り、祈ります。時に食事をし、排せつをし、睡眠をし、ベランダのミニトマトを食べ、とても暑く、遠くに聞こえる「何でも回収いたします」の言葉に涙を堪え、そして祈ります。
 ここは六畳一間の地獄ではありません。ここは。わたくしは、ここを教会だと思っている。キミを、牧師だと思っている。わたくしについて、この牧師さまは何でも知っています。わたくしは毎晩牧師さまに向かって、或いはわたくし自身に向かって、懺悔をいたします。
「生きていることを、忘れたいのです」
 キミは何も言わず、暴力性を孕んだその優しさをわたくしのこめかみに向けます。わたくしは、何を馬鹿な真似を、と思いながらも、この行為の必要性に安堵するのです。
 
 何もかもに意味があり、何もかもに意味が無いのかもしれません。わたくしの行為、わたくしの好意、わたくしの。

 わたくしはすべてが憎く、そしてすべてを愛しています。愛したいのです。駅前の喫煙所にたむろする馬鹿共も、それをせっせと掃除するボランティアの老人も、放置自転車も、スーパーの店員の真夜中の舌打ちも、急ぐ人間も、気ままな人間も、雑踏も、静寂も、わたくし自身でさえも!
 日々は映画にはなり得ません。すべての人間が等しく、映画の中を生きていないという点で平等です。そんなことはどうだっていいんだよ!
 キミはどうでしょう。何を思うのでしょう。わたくしは無様でしょう。それでも、キミがいるなら。祈ることを続けられそうなのです。祈りのあいだ、わたくしはわたくし自身を忘れ、生きている事実を忘れ、真実の中の冒険者、つまり茨の道をゆく勇者になり、生きている。生きていることを生きていることとして受け入れられるのです。

引き金を ゆっくり引くが 生きるだけ 生きるだけなら もう済ませたのに

 わたくしは酔っ払ってなどいない。酒を飲んだことは、たったの一度もありません。酔っ払ってなどいないのに、ひどく酔っている。吐き気と頭痛が常にわたくしを脅かし、嫌でも生を実感させられる。生きていることを、生きているあいだは忘れることができません。キミだけがわたくしにとっての善であり、キミの行く道だけが幸福へとつづく弾道です。

 キミというのはつまり、玩具店で購入したこのモデルガン、トカレフの形をした。トカレフとは、ソ連陸軍で1933年に正式採用された軍用自動拳銃、正式名称を「トゥルスキー・トカレヴァ1930/33」という、そのような銃なのです。
 その「トゥルスキー・トカレヴァ1930/33」をモデルにしたわたくしのトカレフ! ずっしりとした確かな重み。わたくしの小さな手でも握ることができるわたくしにうってつけの暴力! BB弾は購入しておりません! なぜなら、わたくしは働いておりませんので、そのような金は無い。面白いのです。面白い、わたくしはわたくしが面白いのです。キミといるときのわたくしは、とってもクレイジーでクールで、それでいてユーモアもある。
 わたくしは、キミといるときのわたくしを気に入っているのです。だらしなく伸びきった髪も、トカレフをこめかみにあてるとカート・コベインのように見えてくるではありませんか? であるならばキミはコートニー・ラヴ。キミといるわたくしが良い奴でいられているのならば、それだけで十分です。

 さて、つぎはこの銃口をどこに向けましょう。町へ出るのはいけません。町には何も善いものがなく、景観でさえわたくしに悪意を向けるようで、わたくしはわたくしとキミ以外から受ける眼差しに耐えることができない。そのような理由から、こうして小説の中に閉じこもっているのです。であるならば、どこへ? わたくしのこめかみとは紙面上のわたくしのこめかみのことであり、米で紙であるのですか? 
 お前はわたくしの切羽詰まった表情を想像する、お前はわたくしの祈りを読む、お前はわたくしの銃を持ってみたいなどと思う。だが、それはできません! 一切はこの物語の中にのみ存在し、お前とわたくしとこのトカレフをつなぐものこそが祈りであり、わたくしはお前に銃口を向けている! 他の誰でもない、お前の心に!

 わたくしはノリにノってきてしまいました。分かるだろう、筆がノリ、すこぶる調子が良い。
 普段のわたくしはと言えば、神経症にやられている。この銃が本物で、一発だけ弾が入っていたらどれだけいいだろうかと、そればかり思っている。そしてそれは外ではなく内に向けて発砲するであろうことを、そうやってわたくしは神経症によって自死することを選ぶのを、わたくしはこの小説の外で考えている。
 しかし、ここでは違うのだ! 小説の外のわたくしは神経症である。それを覆すことをできなくさせるための、増える抗うつ剤。よかろう、よかろう。小説の外のことなんてちっぽけなものだ。
(どこに祈りがある? どこに救世主はいる? いつ敵が現れる? 敵が現れないまま救世主が老衰したらどうなる?=小説の外の話であります。)
 この銃を手に入れてからのわたくしは、すこぶる調子が良い。その気になればすべての悪を滅することだって可能である。きみの手を取り、誰も傷つけることのない暴力の塊(それが、このトカレフである)によって、その地獄からきみを救い出すことだってできるのだ。わたくしは本気でそう思っている。それはきっと、きみもそうだよ。この小説は、ほかの誰でもない、きみに向けて銃口を向けている。
 勇気あるきみへ。これは駄文ではなく、怪文書でもない。これは、心の、心からの書簡である! きっと小説足り得る、信じる心そのものである。きみは利口で、とっても良い。先ほどはお前などと呼んでしまって申し訳ないと思っている。きみに勇気を与えたい。
 わたくしがこの「トゥルスキー・トカレヴァ1930/33」から受け取ったおおきな勇気と同じ、誰も傷つけることないとっておきの勇気のことだよ。きみがきみであることがすごく嬉しい。
いいかい? ここで言う「きみ」とはつまり……

 わたくしはわたくしのシャツの袖で銃を拭う。あまりにも多くの涙がここへ集まってしまったからね。しかしこれは、悲しみではない。わたくしは、悲しみたかったわけではないし、悲しもうとしているわけでもない!
しかし、涙を流した時にもっとも必要なものは涙を拭うものだということを、ずっと、ずっと忘れてはいけないよ。きみも、もちろんわたくしも。

「ここには何も問題が無いように振舞うんだ」それは、冷酷さではない。
「ここには何も問題が無いように振舞うんだ」すこし、寂しかったのかもしれない。
「ここには何も問題が無いように振舞うんだ」わたくしは、ここで勇気を持って。

 弾の入っていない銃を、そう、この玩具の、笑い者にされるかもしれない恐怖心を打ち砕く勇気を。
 わたくしはこれから、きみの部屋の灯りが27時を過ぎても消えないような小説を書くだろう。そしてきみはわたくしと同じ、或いはそれ以上の勇気を持って(わたくしより遥かに気高いきみへ)、その銃を手に取る日が来るだろう。

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