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毛の日

どぎついタイトルで始まったが、今日はタイトル通りのお話をしたい。

近年、老若男女問わず脱毛を推奨されている。
理由として見た目の清潔感が得られることだったり、場合によっては菌の繁栄を阻止したり、ご年配の方になると介護のために脱毛を始めるケースも多いらしい。
おばあちゃんになったらどうせ脱毛することになるんだから、それなら若いうちにやっていた方が長い目で見てコスパがいいと考えて、親が子供に早いうちからさせるところもあると聞いた。

価格帯も年々価格競争によって安価で対応してくれる医院が増え、当初は痛いと言われていた施術も医療の発達により、そこまで痛みを感じることがない。
更には電車に乗っていても、SNSを見ていても、「毛を抜きましょう。」「毛がないあなたが素敵です。」などと毛が生えていても恐らく綺麗と分類されるであろう方々が、無駄な毛が一本足りともない恐ろしい程綺麗な笑顔で攻め立ててくる。

私はというと10年程前から各社カウンセリングには行っていたが、痛みにめっぽう弱いという理由から勇気が出ずに小一時間の丁寧なカウンセリングを受けては丁寧に検討しますと言い、逃げ続けた。
痛みはどんなものに近いですか?注射と比べるとどうですか?など散々質問した挙句、痛そうなので辞めておきますと言うもんだから、担当してくれた方はとても腹が立ったろうと思う。

そんな私も10年の月日を経て、担当の方に歴代マシンの説明まで受けてようやく始めてみることにした。
その頃自分が付き合っていた人に振られたというタイミングも相まって、自分磨きというものに余念がなく、月に1日美容の日というのを設けた(とは言ってみたが実際には都内に出る日を1日にまとめたかった)。
それが言わずもがな毛の日だ。

どんな日かと言うと、朝一で美容室に向かいカットとカラー。
次いでまつげパーマ。
そして最後に脱毛。
これぞ毛の日。
これこそ毛の日。
毛で笑うものは毛で泣くぞと言わんばかり、一日中毛で埋め尽くされた日。
美容といえばもっと他にもあるだろうと感じるだろうが、逆に言えば毛に凝るだけでも美しさは異なってくるのだ令和という時代は。

毛の汎用性は凄まじい。
ただ毛のみに集中しすぎた結果、元は同じ毛であるのに、ある部分はお金をかけて色を付け、ある部分はお金をかけて抜いたりすることに違和感を感じ始めてしまった。
切ったり、染めたり、カールさせたり、抜いたり。

そもそも守るべき箇所に従って生えてるだけの毛を抜くことは毛頭(毛だけに)、お門違いなのではないか。
守るべき箇所に生える毛なのだから、抜いて終わらすのではなく、こちらもカラーリングで美しくさせようという世界線はなかったのか?
抜いたらみんな同じなんだから、カラーリングした方が個性が生まれただろうし、おしゃれの幅も広がって、ここには脱毛なんかよりも大きな経済効果が潜んでいたんじゃないのか?

あるべき場所にあるだけなのに、見た目のために抜かれる毛の気持ちを考えたことがあるのか。
主人を守るぞと生えてきたのも束の間、レーザーによって夢半ばで焼かれる毛の気持ちはどんなものか。

脱毛をすることによって未来人の毛はより主人を守ろうという意思が強くなり、全身が毛で覆われるようになるといったこともあり得るのだろうか。

自分の主人を守れというDNAが発展し、将来の我が子はそのDNAを見事に汲み取って更に剛毛な姿でこの世に生誕し、私はその子の毛をなくすべく汗水流して稼いだお金を脱毛費として投資していくのだろうか。

ここまで書き連ねたが、脱毛代は支払済なので私は後には戻れず、契約回数をこなすしかない。
私は毛をなくして、毛を濃くさせるDNAを肥やしていくことになった。

毛の日になると毎回たかが毛、されど毛を痛感してしまうのだ。

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