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【カゾクの形】家族について書いてみた<あとがき>


■あとがき

 私は以前、ある二つの組織と話をしたことがある。それは私の生活が困窮を極めていた時であった。藁にもすがる思いで話をしに行った。
一つ目は社会福祉協議会。
生活困窮者の自立相談支援事業をやっていることを知った。
少額だが貸付も行なっているそうだ。

二つ目は役所の生活福祉課。

 その時の私は家賃や光熱費、携帯電話の通信費などを満足に支払えないでいた。理由はいろいろあるのだが今は割愛させていただく。
私の生活が困窮に陥ったわけはもう少し後に書くことにする。
今は、《カゾク》をテーマにしているので、《カゾク》に繋がることを書いていこうと思うからだ。

■社会福祉協議会

社会福祉協議会(しゃかいふくしきょうぎかい)とは、
行政関与によって、第二次世界大戦前中に設立した民間慈善団体の中央組織・連合会(「中央慈善協会」「恩賜財団同胞援護会」「全日本民生委員同盟」「日本社会事業協会」など)およびその都道府県組織を起源とする組織で、地域福祉の推進を図ることを目的とする社会福祉法人である。事実上の第三セクター。略して社協と称する。

Wikipedia/社会福祉協議会

 業務の一つである生活困窮者自立相談支援事業を知り、福祉資金貸付の話を聞きに行ったのだ。“低所得世帯や高齢者世帯、障がい者世帯に対して、低利子(一部無利子)でお金を貸し付けることと必要な援助”
と何かのチラシに記載してあった。

 カウンターに呼ばれ、若い女性の方が対応をしてくれた。
親身に話を聞いてくれた。私がなぜ困窮に至ったか、どうして当たり前の策がとれないか、これからどうしていくのかなどをかいつまんで話した。
話終わるとなぜかはわからないが中年の男がやってきた。おそらく若い女性の上司に当たる人だった。

 若い女性は席を譲るように言われ私の相手が中年の男性に変わった。
私が話したことは、机の上に置いたコピー用紙にかわいい文字で書かれている。さっきの若い女性が私の話を聞きながら、要点をまとめたものだ。
それを上から眺めながら中年の男は、ふぅふぅと鼻を鳴らしていた。
鼻を啜っているとか、どちらか片方の鼻が詰まっているということではなく
笑っていた。

要所要所で、鼻を鳴らしながら笑っていたのだ。

私の人生は人から笑われることが多い。
おもしろくて笑われる場合もあるが今回の話は別に笑いどころなんてなんてない。切羽詰まった男のただの命乞いに近かったはずだ。
それをこの社会福祉協議会の職員である中年の男は鼻で笑った。

その中年の男は両親は存命か、と聞いた。
私がはい、と答える。
男はじゃあそっちに頼ってください、とまた鼻で笑った。

私は再三説明をした。コピー用紙にかわいい文字で書かれていることを訴えた。私の親が毒親である可能性があること。
親との確執で満足に仕事ができない場合があること。
だからこそ困窮していて、貸付金の存在を知ったからここに来たのだ、と。

中年の男は終始、「親に頼れ」であった。
さらに私がいう親の事情というものは要件に該当しないということだった。

■生活福祉課

もうひとつの組織は役所の生活福祉課だった。
これは自ら進んで行ったわけではなく、役所のとある部署の担当が一度話をしてみてくださいというので仕方なく話をしに行った。
もしかしたら受けれる支援があるかもしれないということだった。
担当ははっきりとは言わなかったがそれが生活保護の話だとは序盤で理解していた。正直私は生活保護はほぼ該当しないだろうと思っていた。

なぜなら社会福祉協議会でハネられたことが役所で通るわけがないと思っていたからだ。しかし役所のとある部署の担当というのが、熱心に私の話を聞き少しの同情と理解を示しなんとかしようと考えてくれたので無下にはできなかった。

生活福祉課へ行き、中年のおばさんが話を聞いてくれることになった。
このおばさんは優しそうでいかにも困り果てた人が頼りやすそうな人だった。役所の職員というよりベテランのカウンセラーのような雰囲気だった。

私は社会福祉協議会で話したことと同じことを話した。
答えは簡単。申請はできる、申請が通るかどうかはわからない。
当たり前の話だった。しかしそのカウンセラー風の職員のおばさんが言うには家族や兄妹が存命の場合は生活保護を申請したことが通知されるそうだ。

要するに、国から養ってもらう前に家族間でどうにか助けてもらえませんか?というお伺いがなされるということだった。
私は家族との確執でこういう状態であり、家族に私の生活を知られてしまうと今よりもひどい事態に陥るのだけれど、と質問した。

カウンセラーおばさんは言った。
「虐待やDVなどであれば安全を考えて通知をすることはない」
私の場合は、そのどちらにも該当しないということだった。
肉体的に虐待されたり、明らかに精神を壊していることがわかる状態でないと通知をしないという措置はとれないということだ。

結局私は役所にて生活保護の申請をしてなんとか短期の保護を受けることができた。その経緯は別記事に書いているのでぜひご一読を。

■<前身体>の社会不適合者として生きる

そうやって私はなんとか生き延びているわけだが、もう社会に助けてもらおうなんて考えはやめた。そもそも私は最初から社会とは《違った状態》で育ったからだ。社会に適合しなかった社会不適合者であることをさらに自覚した。社会不適合者という言葉はそれ以前から使っていた言葉ではあるが、
まさかここまでとは思わなかった、というか概念的、思想的なものであると持っていた。

そうではなかった。私は物理的に社会から離れてしまったのだ。
友達もすべてどこかへ去っていった。私を知るものはどんどんといなくなる。社会の外の広大な荒野をひとりで歩いている。

この歳になって、家族のせいにはしない。私自身が不甲斐なかったのだ。
それは甘んじて認める。努力も足りかなっただろう。考えも甘かっただろう。私が全て悪い。私の人生だから自分の至らなさはちゃんと背負う。
しかし私という人間が出来上がった根拠として家族が原因であるということは確実である。家族というものが、一人の人間の心、精神の形を決めたのだ。私の場合はかなり歪に決められた。

私は、生きる上で自分に合っている軸を発見することができた。
歪な心の形を無理矢理変形させ苦しむことはないし、精神的にも大きく揺らぐことはない。

精神的に、といえば私は短期の生活保護を受ける条件として精神科の受診というものがあったし、自分でも自分の正体をきちんと精神医学的にどうなのかと思っていたので精神科へ行き検査を受けた。
結果は案の定、といった具合だった。
こちらも別記事で書いているのでご一読を。

それは私が生きる上で発見した軸が、その病があってこそのものだと理解している。万が一、その病が私の中から消え去ったとしたら、私は廃人と化すだろう。何をしていいのかわからず、自分が何をしたいのかすらわからない。ただのタンパク質の塊になるだろう。
こういった散文を書くこともないだろう。映画やアニメ、小説や漫画を読むこともないだろう。
青空を見ても、幾千の星が輝く夜空を見ても何も感じないだろう。
喜怒哀楽を感じることなく、ただ誰からも知られることもなく息をするだけの生物となるだろう。

私が手づから獲得した軸は、私が《人間》としての形をかろうじて保つための楔となった。その楔がなければただの歪な形をした何もできないニンゲンしか残らない。

■結論

▼《前身体》《亜種》の発生問題

 《前身体》はカゾクの過干渉や抑制によって、《亜種》は不認知によって生まれる。これは子が選びようのないことである。
そういうカゾクのもとに生まれる、認知してくれる者がいないというのは
運次第なのだ。

一時期《親ガチャ》という言葉が流布されたことがある。
私はある程度の歳の者がこの言葉を使うことにただならぬ嫌悪感を感じるのだ。ある程度の歳になってからはある程度距離がとれるはずだ。
物理的な身体への影響がある場合はなおさら制度として距離がとれる。

その反面、高校生や大学生がこの言葉を使うことには少なからず共感を覚える。なぜなら現行の社会システムにおいて未成年においてはかなり制限があるからである。それは安全面や養育の面では必要なことであることは重々承知である。しかし問題としているのは、子の将来へつながる行為に対しての抑制や不認知なのだ。

子へかける言葉のひとつひとつが子の人間性を形成し、遊びの中で覚えること、親の庇護のもとやってみることでできるようになること、これらすべてが大人になってからの思想や価値観、倫理観に大きく影響する。

他の子と同じ水準のものを与えない、仲間意識の形成の阻害、子だけで遊ぶことで学習することをさせない。
お小遣いというお金に対する観念や責任を与えないことで《前身体》や《亜種》が生まれるのだ。

たまたま生まれた場所が悪かった、と言えばそれまでであるが
生命の誕生にまで手を出せるほどまだまだ人類は発展していないし、
やってはいけないことだしそこはもう動かせない命題なのだ。
だとしたら生まれた後を改善する必要があるのだ。
産声をあげるカゾクを選べないのであれば、ある時期を境に
子自らが《擬似家族》を作れるような状態もあっていいのではないだろうか。

▼社会のシステム問題

 私は現行のカゾクというシステムについて真っ向から異論を唱えている。
それは虐待の問題や毒親の問題は、カゾクという枠組みを取り払えば
半分ぐらいは解決できそうな気がするからである。

“そんな悲しい事件が起こるなら家族なんてなくていい”端的に言えばこういうことだ。

現在の家族に関する法律の多くは“家族とはこういう形です”とか相続、親権などの“家族”という群れが当たり前に存在することを前提としたものである。さらにその法律には書かれていない“心情的な前提”が問題なのだ。

家族は何より大切なものであるという暗黙の了解、そう思わない奴は親不孝だ、人でなし、感謝もできないダメな大人などと言われるだろう。

はたしてそうだろうか。
虐待を受けた子は親を大切だと思うだろうか?
年老いて弱った親をやさしく介護できるだろうか。
“虐待されている子供は別だよ、仕方ないよね”と言うのだろう。
虐待されてるからどうとか変な宗教2世になってしまったから、ということは関係ないのだ。全ての人間が家族が大切だと思わなければならないという“見えない法律”が問題なのだ。

現行の法律では、残念ながら家族と完全に縁を切る方法はないそうだ。
自己申告で縁を切るということはできても、実際法的には家族である事実はなくならない。なぜかがよくわからないのだ。なぜそこまでたまたま生まれた場所やたまたま生まれた集団を後生大事にかかえなければならないのだろうか。何かの支援や制度を利用するとき、カゾクの存在のせいで一向に道が開けないときどうすればよいのか。
物理的な虐待があればよかったのか、変な宗教2世であればいいのか。

世の中には“見えない法律”があって、その前提こそがグレーゾーンや
身体的に被害を受ける以外に将来を潰されるようなカゾクもいることをもっと知るべきではないか。

▼擬似家族?コミューン?

親がいないと子は育たないというわけではない。
例えば、養護施設などで何かの事情で身寄りがいない子供達が生活しているが適切な環境で適切なスタッフのもと立派に育っている。

ああいった子たちを見て、“あぁ、親御さんいないのね、かわいそう”と思うこと自体がまずおかしいと思うのだ。
別にどっちだっていいのだ。親や家族というものがいなくても。
かわいそうなんかじゃないのだ。

彼らは彼らの家族がいる。
血のつながりなんてないけど、お互いに助け合いながら同じ窯の飯を食い、
たまに衝突もする。彼らは彼らの大切な人もいる。
それを血のつながりがないだけでかわいそうなんて烏滸がましい。
かわいそうだって言うから、かわいそがった対応をするから本人たちも
“私たちは欠けているのか”という劣等感にも似た感情が生まれたりする。

違う。まったく違う。
彼らは現行の家族とは全く違った《擬似家族》、自身が大切だと思える家族やメンターを現行の家族がいる者より見つけることができる。
(里親といった制度は別にして)
おそらく現行の家族、いわゆる普通の両親がいる子が急に
「ぼくはあの人を父と思うことにする」と言い出したらたぶん通報したりするのだろう。一般的な家族の子供はこのようなことを思うことすらよいとはされないだろう。

私はカゾクというものを徹底的に失くせと言っているわけではない。
カゾクを選ぶシステムが、今の家族を法的にも完全に切ることができるシステムが望ましいと思うのだ。

自らが望んで作ったり、理想のカゾクへと移動することができる状態。
年齢に応じて、やりたいことや将来に向けて移動できる集団。
それを《擬似家族》と言うか《コミューン》というかはどうでもいい。
できるだけ《前身体》や《亜種》を生まないような画期的で斬新で、
世の理を覆すような策が必要だと考える。

そういったものが実現したら悲しい事件や、生きづらさを抱えて生きる者も少しは減るかもしれない。

■さいごに

 私は《まえがき》の冒頭に『現在の日本で大きな社会問題となっていることとは少し違うかもしれない』と書いた。
それは社会自体がまだそれが見えていないという点と、
見ようとしない点と、理解できない点と、理解したとしても現行の社会システムではどうにもできないことが複雑に絡み合っていて問題視することがまるでタブーのようになっているのではないかと考える。

 毒親というのは必ずしも肉体的な虐待があるわけではない。
立証や表に出せないことだってある。それを誰の目で見ても明らかにするのは難しい。精神的な拘束や強制があったとしてもそれを教育方針や家風だと言ってしまえばこれも立証は難しい。側から見れば真っ当な理由だからだ。
しかし子供からすればそれは必ず生きていく上での障害となりうる拘束や強制である場合がある。

 さらにそれを誰からも認められることなく生きていけば必ずどこかで歪みが発生する。自身を肯定するために思想や価値観は作られる。
それが一般社会とはどんどんズレていけば生きづらさを感じる。
そして自ら命を経つか、何も感じない廃人となるか、はたまた小さな個人的な復讐を果たす悪鬼となって犯罪を犯すか、である。
幼少期につらい思いをすることも問題であるし、さらにそれが原因となって成長してもつきまとうことも問題である。まるで《カゾクの呪い》である。

 私には現行の社会システムを変える力はない。
あったとしても、現行の社会システムで利益を享受する者、現行の社会システムを盲信的に信じる者、何も考えたくないから何も変えたくない者に阻まれて終わりだ。

 人生は短い。私は若くもない。あと10年早く、いや5年早ければ何かしらの爪痕ぐらいは残せたかもしれない。年齢は関係ないというのは簡単だが、
年齢の話ではなく時期の問題なのだ。
10年早い時期、5年早い時期であったらまた何か違っただろうという話だ。

ただできることはほとんど誰も読んではいないにしても、この散文を残すことだと考えている。私は社会学者や有識者ではない。
きちんとした調査や統計、データなんてものもしっかりとらずこの文を書いている。異論や反論があるかもしれない。
しかし私はそういう世界で生きたのだ。

どんどん私は誰の目からも消えていく。
《信用》という名のフォロワーやいいねが社会的に価値を持つ現代と未来において私はどんどんパブリックな要素をなくしていく。

すでに、あなたから私は見えないだろう。
私もすでにあなたが、あなたたちが見えない。

目の前に広がるのは、何もない荒野だけである。


【カゾクの形 全四回】家族について書いてみた<あとがき>  完


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