「山田孝之の東京都北区赤羽」を見て01

山田孝之が気になる。
私が山田孝之を実際に間近で見たのは、2010年の池袋シネマロサ。
「乱暴と待機」という映画の舞台挨拶でのこと。監督の冨永昌敬が来るというので、行ったのだ。小池栄子はなんて素敵なんだろう、そして山田孝之はなんて無愛想なのだろう。というのが正直な印象だった。女優帽みたいなツバのかなり広めの帽子を被って、わりとそっけない受け答えをしていたような記憶がある。特に好きでも嫌いでもなかった。

それから10年。2020年、私は観た。「山田孝之の東京都北区赤羽」というテレビ番組を、である。この番組自体は、2014年撮影、2015年放映のものなので、何を今更、かも知れないが、なんとも言えず衝撃的だったので、感想をメモしておこうと思う。

この番組は、ドキュメンタリードラマ、と言っていいのだろうか。山田孝之が赤羽で過ごす日々を追い、赤羽の人々や、親交の深い人物との関わりを描いたドラマだ。

山田孝之は、映画撮影の最中に、演技が出来なくなってしまう。その結果、映画を一つ、つぶしてしまう。ある時、つぶされた映画の監督、山下敦弘の元に「東京都北区赤羽」という漫画が届く。山田孝之からだ。山田孝之は言う。「僕はこの漫画に出てくる人々の自由さに心を動かされた。だから、赤羽に住んでみたいと思う」。いやいやいや。多分人気役者はそんな感じでホイホイ引っ越せない。家族いるし。事務所あるし。え?なにどこまでが本当なの?と思っているうちに、山田孝之は赤羽の、2Kの、畳の、扇風機のよく似合うアパートに引っ越してしまうのだった。そんな始まりの番組。30分×12話。

山田孝之ができなくなった演技というのは、侍と思わしき男が、自分自身を斬る、というシーン。もちろん偽物の刀で、本当に斬っているように見せるわけだが、山田孝之は斬る直前に「死ねないですね」と言い出し、真剣を用意するように監督に打診。もちろんそんなことは出来ないし、百歩譲ってもし仮に渡したら、本当にやりそうな気迫に満ちていた。
曰く、自分と役との境界がわからなくなって、本当に死なないと成立しない、と思った、という。

最初の2、3話は、山田孝之の謎発言と謎行動、それに翻弄される周りの人々とのやりとりが面白く、どこまで本当なんだろうなあ、と比較的呑気な感じで楽しく観ていた。

次の2、3話では、実際に赤羽の人たちに会って、歓迎されたり驚かれたり、説教されたり色々とする。
演技をすることや、役者であることについては全くの素人である赤羽の人たちに自分の悩みを相談し、そこで受けたちょっと的外れなアドバイスや、明らかにふざけた回答などを、恐ろしいほど愚直に受け止め、実践しようとするのだ。そんな姿を見ていると、自分が見出した、「赤羽の人々の自由さ」に届く方法がその先にあると信じて、まずは一旦全てを受け入れようとする態度に見えた。その姿に、ちょっと感銘を受け始める。

次の2、3話では、あれ?これは、あえて自分を抑えていまは一旦受け止めよう、としているわけじゃなくて、ずっと、ただただ本気で受け止めているだけなのか? という可能性に思い当たって、愕然とする。山田孝之は15歳から役者として働いていたらしい。初対面の演出家にいきなり、この人物はこういうキャラクターで、このシーンではこういう気持ちで…みたいなことを言われ、うまいこと自分以外の何者かになれた時は褒められる。自分のことよりも、役のことを考える時間が長くなっていく。そういう生活とは、どんなものだろう。私が思っていたよりも、山田孝之には「現実」に対する免疫がないのだ、などと知ったような気持ちになってくる。ほどに、山田孝之がただの人に見えてくる。ただの繊細少年に見えてくる。でもそれも、演じられたものかも知れないけどね、という冷静さはいちお、私の中に残ってはいる。

みなまでは書きませんが、大団円なフィナーレだったと思う。

最後まで、どこまでが本当のことかはわからないけれど、用意されたセリフを喋っているわけではないはずで、セリフや受け答えの一つ一つは、山田孝之の持っているものの中から出ているのだと思う。もし仮に山田孝之が山田孝之を演じていたとして、それは嘘なのか本当なのかというと、難しいところかも知れない。

そもそも「演じる」とはなんだろう。高校は映画演劇部、大学では映像科専攻だった私は全く無縁の話というわけでもない。自分の拙い演技体験の中で、「怒ってペットボトルを投げる」というシーンがあった。
私はそれがうまく演じられなくて、先生が「怒って投げる」のではなく「投げたから怒る」と考えてはどうだろう、という演出をしてくれたことがあった。本当は、それではおかしい。作品の中の登場人物がなぜペットボトルを投げたかというと、それは怒りの感情が高ぶったから投げたのであって、投げたことで怒ったわけではない。
でも、私は、本当は登場人物ではない。だから、私自身は別に、怒ってはいない。そこに怒りの感情をすっと沸き起こすことができる人をプロというのかも知れないけれど、先生の演出は、怒りの沸いていない私を、無理に捻じ曲げることはないんだと言う。怒ろうとするのではなく、自分がペットボトルを投げたときのけたたましい音や、鋭い動作によって身体の中に沸き起こるものに、しっかりと耳を澄ませることが大事なのだと。その沸き上がってきたものを怒りに変換してはどうか、というのだ。言われてみれば確かに、現実の世界でも、怒ってモノを投げると、その投げたことに興奮してさらにヒートアップしたりする。私はとにかく力一杯ペットボトルを投げ、投げたエネルギーでセリフを言ったら、ようやくOKテイクを撮ることが出来た。
演技とは、偽物の感情を自分の内側で作り上げ、それを放出するだけではなく、身体の変化によって内側に沸き起こるものの中からするものなのだ、と思ったものだ。つまり、存在しない他者の感情を想像するだけでなく、自分自身の身体に耳を傾ける。それは、役ではなく、自分として行うことだから、嘘というわけではない。むしろ、現実よりも、研ぎ澄まされて本当すぎる。

自分のささやかな演技体験と、山田孝之が演じることとが同じ延長線上にあるなどとは思わないが、もしかすると、山田孝之だって、どこまでが嘘でどこからが本当、という明確な境目があるわけではないのかも知れない。そうすると、嘘か本当かにこだわることは、さほど意味のないことなのかも知れない。
(「役との境目がわからなくなり、己を本当に斬らなければいけないと思った」というモチーフが登場していることでも。それがたとえ嘘の設定であったとしても、そういう題材を選んでいるわけだから)

それでは、嘘or本当が気になる私の心境とはなんなのだろう、ということも気になってきた。今回で言えば、前半は気楽に笑うことが出来たが、後半は笑っていいものか、ちょっと迷いつつ観ていた、ということがキーだという気がする。

どんどん長くなっていくので、今日はここまでにしようと思う。
またまとめる時間がかかりそうだが、近々書いてみたい。

作品の中での山田孝之は、役者である前に人としての自分を見て欲しい、というような気持ちを持っていた。そういう意味では、大成功すぎるんではないか。とりあえず、山田孝之、なんて遠い芸能人を呼ぶみたいにではなく、なんかもう、つい「山田くん」と呼びたくなってしまったのだった。


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