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疎林広場

仕事の休憩時間にあてもなく歩いていると、公園を見つけた。
何気なく立ち寄り案内地図を見ると、「こども広場」や「芝生広場」に混ざって、変わった名前の広場がある。
その名も「疎林広場」だ。

私はしばらくその場に立ち尽くして、この言葉の意味について考えてみた。
疎ましいと書いて「うとましい」、疎らと書いて「まばら」。
正確にはわからないにしても、疎林という言葉には、どことなく後ろ向きなイメージがつきまとうし、多分、きっとだけれど、木がまばらに生えた広場、と考えてしまっていいように思った。
それ以外になんだというのだ。
なるほど、確かに簡潔で正確な名前ではある。

でもだからこそ、私は思った。

木があんまり生えていないことをあえて名前を冠して伝える。
これはどういうことなんだろう。

そこに、特筆すべき何かがあるのかもしれない。
つまり、疎林広場は、ただ木がまばらに生えている広場ではないかもしれない。

そう思い立ってしまうと、自分の目で確かめなければいけないような気がした。疎林広場までは結構距離がある。なんとか休憩時間内に往復出来る距離だとは思った。

それから私は、猛然と歩いた。公園の中は混み合っていて、そこらに配置された一人掛けベンチは、パソコンを膝に抱えたビジネスマンでほとんど埋まっていた。
子供達は駆け回り、その合間を縫うように、犬の散歩をしている人や、ここ以外に行き場のなさそうな中年男性らがゆっくりと徘徊していた。

こども広場や芝生広場を抜け、ジョギング広場も通り過ぎ、私はひたすらに歩く。ここかもしれない、と思えるところがいくつかあったが、どれも疎林広場ではなかった。複雑に枝分かれした遊歩道がジョギングコースにもなっているようで、何人ものランナーが私を追い抜いていく。

やがて私は見つけた。
疎林広場という立て看板が、しっかりと地面に埋め込まれている。
宝の隠された洞窟を発見したかのごとく、私は思わず「ここだ」と小さく声をあげた。

疎林広場は、予想に違わず、木がまばらな広場だった。
しかし不思議なことに、そこは遊歩道と遊歩道の間の、言わば三叉路の中央分離帯のようなスペースで、人が立ち入ることは出来ないようになっていた。

と言っても木がまばらな広場のようなスペースは、ここにくるまでに他にいくつか見かけていたし、それらはもっと鬱蒼としていた。
それに比べ疎林広場は、しっかりと草が刈られ、整備されているように見える。

しかし、人は入れない。
なんとも不思議な空間だ。ここにわざわざ名称を与えて整備しておく意図はなんなのだろう。
もう、見とく、以外どうしたらいいのかわからない。
そう考えるとここは、芝生とまばらな木しかないけれど、それにしても鑑賞する以外にどうしようもないこの広場は、広場というよりも庭園なんじゃないだろうか。
木が少ない林だと思うから疎林、なんていうことになるわけで、ベースは原っぱだと考えるのはどうか。

つまり、原っぱなのに、木がある。

まずは「疎」よりも「林」の方から変えていこう。
これは林ではなく庭。

そして木が疎らなのではなく、なんと三本も生えている。
木が生えているから、本当だったら太陽が当たりすぎて暑いのっぺりとした原っぱなのに、三本も木が生えているので素敵な木陰が出来ている。

木陰の庭だ。
そうだ、ここは疎林広場ではなく、木陰の庭。

私はうっとりと興奮した。

しかし、この場には入れないのだ。
いくら素敵な木陰が出来ようと、それもまた見とく、以外ないわけで、木陰に入ることは許されないのだ…。

私は休憩時間だったことを思い出し、早足で来た道をまた猛然と戻りながら、疎林広場の新しい名前について考え続けた。


結局、休憩時間いっぱいまで使い切って、私は疎林広場と向き合う羽目になった。
しかしまだ、あの空間を正確に言い当てる名称には辿り着けていない。

なんとも哲学的な広場である。



(執筆時間33分)

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