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嘘かホントか気になる!の先にあるもの。「山田孝之の東京都北区赤羽」を見て02

高梨ぽこ

長らく間が空いてしまった。喉がらみの風邪を家族でうつしあい、ようやく総当たり戦を終え、負の連鎖から抜けようとしている…。今年は夫婦そろって厄年だが、全くもって厄年を存分に堪能している。

で、本題だ。
「山田孝之の東京都北区赤羽」を観たときに、それが嘘か本当かが強く気になってしまったが、それは何故か、を考えようと思ってから時間が経ってしまったが、やってみようと思う。そしてその先に何があったのかを見つめたいと思う。

この番組は、フィクションとノンフィクションがまぜこぜになって作られている番組だ。

もしもこの番組が、あらかじめフィクションだとわかっていたら、嘘か本当かを気にする余地はないだろう。もし「嘘でないこと」がその中に入っていたとしても、見る側の意識は「全て嘘」だ。嘘、というとなんだか人を騙しているニュアンスが感じられ、ちょっと語弊があるような気がするので、まあ、要するにフィクションである。フィクションだと安心して観られる。それは、笑い飛ばしても批判しても共感できなくても、誰も傷つかないからである。

では、もしもこれはノンフィクションです。と言われた場合はどうだろう。山田孝之ってこういう人なんだ。役者のプライベートってこんな感じなんだ。などの感想を抱きつつ、本当にすべてが事実なのかな?とまぁ少しくらいは疑うかもしれない(あんまりに突飛なので)。で、そう簡単には笑い飛ばせないと思う。笑い飛ばしたり共感できなかった場合、なんとなく、山田孝之を批判しているような感じになるからである。ドキュメンタリー番組というものに対して、私はシリアスなイメージを持っているのだが、多分そのせいだと思う。映像の向こう側の生身の人間が気になって、簡単に笑えないのである。

で、この番組の場合、そのどちらとも、言っていない。どこまでがフィクションでどこまでがノンフィクションかは、全く説明のないまま番組は始まるし、最後まで進んでいく。

そうするとこちらの心理としては、最初は面白い。山田孝之の謎行動に、振り回される周囲。でも強くは言えず、おかしいな?と思いながらもズルズルと引き込まれていく周囲…いやいや、山田くんの勢いに押されてしまってるわいな、はは。などと、他人事のように観て、笑っていられる。

しかしだんだん、観ているこちらもズルズルと引き込まれてしまう。結構ノンフィクションかも知んない、という気持ちになってくる。そうすると、手放しに笑い飛ばすことができなくなる。冗談だと思っていたことが実は本気で、「え、マジなん?」てなった時の表情の変化を思い浮かべていただきたい。

でも、フィクションなのかノンフィクションなのかは、ずっと答えが与えられないままなので、こちらはずっと、どんな気持ちで観たらいいんだろう、と落ち着かないところがある。この感じ、何かに似てるな、と私は思った。

現代美術を観たときの感じである。「ふざけているのか真剣なのかわからない、笑っていいものかわからない現象」に対峙するこの感じは、「アート」に似ているのだ。つまりこれは、「芸術性が高い」ってこと?芸術性ってなんだ。という話もまた非常に価値のある語りであると思うが、今日はその切り口ではなく、その先に何があったか、を考えたい。

つまり、フィクションなの?ノンフィクションなの?そわそわ。を超えた後のことである。

正直、なんかどっちでもよくなってくる。

その、どっちでもよくなる瞬間の、分水嶺の心境の変化がすごく、この番組の面白いところだと思う。私の場合は、本当に最後の1、2話のところだったのだが、なんか、急に、自分が自立した存在になる感じがある。

それは、「相手がどういうつもりで話しているかに関わらず、完璧に自分のペースで相手の話を聞けているときの感覚」に似ている。

普段、日常会話をしている時、私はできれば、その会話を楽しいものにしたいし、相手にとって実りあるものにしたいと思ってしまう。その結果、相手の話の中で、自分に共感できるポイントを探して「わかるわかる!こういう時にああなる感じだよね。私もある!」と言ってみたり、ああ、今は意見を言うよりもただ話を聞いて欲しいんだな、と言う風に見えたら黙ってみたり、相手の様子に応じて自分を変化させて会話している(誰しも少なからずそういう部分はあると思うが)。ある意味では、多少自分を演出しながら話している。

でも、何かの折にふと、相手の発する様々なシグナルが見えながらも、自分自身を演出するなどまどろっこしいことをせず、思うままのことを言えるようになることがある。そのスイッチは謎だが、ああ、これがこの人との適切な距離なんだ、と不意にわかるのだ。その感覚をすぐに忘れて、また変な距離感になってしまうことも多々あるのだが。

フィクションでもノンフィクションでも、どっちでもいいか。となった時、私はそれとよく似た感覚を覚えたのだ。ものすごく私そのものになった感じがした。その映像との、これが適切な距離なのだとわかった。

その、自分を演出しなくてもいい感じはまさに、山田孝之が番組の中で求めていた「自分の軸」なのではないか。という結論にたどり着いたときは、一人でおおお。と唸ってしまった。

それは別の言い方をすれば、「誤読」を恐れないということかもしれない。アートにせよテレビ番組にせよ、作品の見方に「答え」や「正解」などはなく、演出家や作者の思惑などに、縛られすぎる必要はないのだ。作者が全てをコントロールしていて、それを読み取れないと恥ずかしいとか、読み取れないのは自分の能力が低いせいだとか、思う必要はない。誰もが、自分の立場から自然体で作品を観ればいい。作者が優位にいて、観賞者が下位にいる、と考えがちだが、両者の立ち位置が近くなればなるほど、作品鑑賞は面白くなってくるような感じがある。

さて、この「フィクションorノンフィクションで揺さぶられるシリーズ」はこれだけではない。同じ揺さぶられ方が期待される、「山田孝之のカンヌ映画祭」が再放送になっている。赤羽と同じ、山田孝之&山下敦弘監督&松江哲明監督のタッグである。


また、はりきって山田孝之に翻弄されたいと思う。


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高梨ぽこ

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