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ポストヒューマニティーズとはなんぞや⑩

前回はカンタン・メイヤスー。
今回はグレアム・ハーマンです。

ハーマンはハイデガーを中心に研究する、アメリカの哲学者。

ハーマンの相関主義の乗り越え方は、「オブジェクト指向哲学」と名付けられている方法。通称「OOP」と呼ばれたりしているらしい。

『現代思想2019年01月』の飯盛元章の寄稿文によれば、

オブジェクト指向哲学とは、個体的対象(オブジェクト)を究極の立場とみなす立場である。(中略)すべての対象を平等に哲学の出発点とみなそうというのが、オブジェクト指向哲学である。

としている。ちなみにハーマンのいうオブジェクトとは、あらゆるタイプの存在。ダイアモンド、ロープ、中性子、軍隊、モンスター、言語など、なんでもだ。

ハーマンが乗り越えようとしている相関主義は、
私たちが認識できるのは「対象(モノ自体)」ではなく、主観を通して顕れた「現象」だと考えた、カント以降の哲学に共通する知の枠組みのようなものだ。
それではハーマンは、モノと人を平等に考え、どのように乗り越えるというのか。

ハイデガーの研究者であるハーマン。
ハイデガーの「退隠」という概念によって説明をしている。

存在はしているけど、どこまでも退いて隠れてしまうので、全てはみえないということだ。

メイヤスーのページでも挙げた、2015年に紀伊國屋書店新宿南店で開催された「ポスト・ドゥルーズの実在論をさぐる」というフェアに寄せられた文章を参考にまとめてみる。

オブジェクトたちは、こちら側のアクセスから、どこまでも退いて隠れてしまう。ただ向こうから発せられる、表面的な性質を媒介にして、間接的に関係することしかできない。ハーマンはよく「木綿と火」の例えを用いるのだという。相関主義の哲学では、「木綿の燃焼を認識する人間の主観」が必要であったが、ハーマンは木綿と火は人間の主観なしにそれらだけで関係し合うと考える。しかしそれとて、燃焼に関わる部分的な性質のみを媒介にして間接的に関わり合っているに過ぎない。木綿と火は、おたがいに十全に汲みつくされることのない余剰を背後に隠し持っている。

ハーマンの考える世界のあり方の、輪郭らしいものがボヤーんと見えたような見えないような感じだが、私は小さい頃、自分の背後は絶対に見えないのだから、後ろに何があるかはわからないし、自分の思っている、自分の部屋の壁が本当にあるとは証明できない、と気づいたときのなんとも言えない恐ろしさを思い出した。

前を向いたまま、手だけ背中の方に回してその手が虚空をさまようとき、もしかすると何かが手に触れているのかもしれない。例えばラヴクラフトの邪神のような、現前しない、テイストだけの存在が?ハーマンは、個別的存在者(オブジェクト)のあり方を、ラヴクラフトの怪奇小説にもなぞらえたらしい。これも、「ポスト・ドゥルーズの実在論をさぐる」から知ったことですけれど。

ハーマンの描く世界を、私は魅力的だと感じる。
様々な科学技術が色々なことを科学的に証明することができるようになっていく中、なんだか非科学的な方に開かれていく気がする。いや、非科学というよりは、科学に還元されることを逃れる方向に開かれるというのか。哲学と科学を合わせることで相関主義を乗り越えていく方法もある。自分の後ろにちゃんと壁があるかどうかなんて、ビデオカメラで撮ればわかるじゃないか、と人はいうかもしれない。これまでの哲学は、それに対して、いやでもその映像を見るのもまた人間の主観だから…という方法で思考の余剰を確保してきたのかもしれない。それが今度は、モノそのものの背後に「汲みつくされない十全な余剰」という概念をおいてみるのだという。なんだかワクワクする。人間がアクセスできない物を想像することは楽しい。例えば人の手が入らない原生林。そこに足を踏み入れたらどんな感じだろう。自分がいない場所を体験することは出来ない、と考えるのは人間主義だろうか。近所のスーパーも、いつもの勤務先も、ある場合ーーーつまり自分がそこにいない場合には、アクセス出来ない未知の場所と考えてもいいのだろうか。自分のいる空間が、自分には認識できない余剰によって満たされてゆく。計り知れないエネルギーがそこここにあるように思えてくる。

思弁の力で乗り越えるという方法は、肌に合っているみたいだ。

後半はなんだか感想文になってしまったが、ハーマンに限らず、メイヤスーも、これから見ていくガブリエルも、そういう意味では共通点がありそうだ。実在論的転回の人々の考えは、結構文系向きの、面白い分野だと思います。

それでは次回はマルクス・ガブリエルです。

応援いただいたら、テンション上がります。嬉しくて、ひとしきり小躍りした後に気合い入れて書きます!