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そばかすはアクセサリーではないんだぞ?

久しぶりに海外に来ているのだが、日本の美容業界のスタンスによってどれだけ自分が削られてきたか実感した。

私はいわゆる「癖毛」でそばかすがあり、それに悩んだり生かしたりしながら生きてきた。
自分を美しいと信じているし、お化粧もお洋服も大好きだ。
それでも、日本で直毛でなくシミがある状態で生きるということは、おおげさな言い方をすると、自己を否定され続けることでもある。

日本では(東アジアでは?)シミのない均一な白い肌と真っ直ぐな髪が理想とされる。しかも美的観点からだけではなく、「健康」「衛生」的な理想でもあり、「健やか」という言葉がよく使われている。
うねる髪は「歪んでいる」とされて、「矯正」の対象だ。健やかなのはまっすぐで艶のある髪。真っ直ぐではない私の髪は「癖毛」で美しくない。

こうした言説が繰り返されて、「癖毛」でそばかすのある私は、「まあそうか。自分は歪んでいて、直さなきゃいけないのか〜」と思う。
それにはお金も手間も時間もかかるから、ときには「海外」のモデルを参考に自分を演出したりする。それが上手くいって、「エキゾチック」で素敵と言われる。
今は様々な美が認められているし、至る所であなたは美しい、個性が大事と繰り返されているし、だから全然いいんだけど、全然いいはずなんだけど。ちょっと待ってよ。

歪んでるとか「健やか」でないとか、たとえばコイリーヘアの人に同じこと言えるの?と思わなくもない……っていうか、思う。
商品説明や美容の場でのやりとりにおける表現一つひとつが「理想」以外の形を明確に否定しているのだ。
世界中、それどころか日本国内にさえもいろいろな髪や肌や体型の人がいて、直毛でシミがないからといって美しくないわけでも健やかでないわけでもない。逆に直毛でシミがないからといって美しいわけでも健やかなわけでもない。
それなのにシャンプーの広告も、美容液の販売員もあなたは歪んでいて矯正しなければならないというメッセージを発信している。

さらに悪いことには、散々否定してきた「癖毛」やシミ(そばかす)を「外国人風」といってとりいれる流行もある。
カーリーヘアを素敵だと思うこと、そばかすを可愛いと思うことそれ自体はいい。ありがとう。私もそう思う。
でも散々否定して私たちの自信を奪ったあとで、「ファッション」として取り入れるのって「いい」のだろうか。

確かに、私もいろんなお洒落が楽しめたらいいと思う。そばかすやほくろを描き足して自分の顔をもっと好きになれるのなら、それより嬉しいことはない。
ただ、私たちが「現実」として生き、否定されている身体的特徴をおもちゃにしている感は否めない。この構造の告発自体はよく見るところではあるけど、寡聞にしてフェイクそばかすにキレている人はまだ知らない(いるとは思う。お友達になれるかも)。

海外に来てこういうことに「気付いて」記事を書くのは正直かっこわるいと思う。かなりかっこわるい。それは認める。
ただ、海外にきて「気付いた」というのは正確ではない。日本でもずっと思っていたし怒っていたし傷ついていた。でも、繰り返し否定される中で「まあそうか〜」と思ってしまうのだ。日々の生活に忙しくてせいぜいぼんやりと呟くことで精一杯だ。
その繰り返しがなんらかの形で途切れた時に、怒りが明確な形を成す。でもほんとに、ずっと悲しんでたし怒ってたのよ。

私は日本に愛する人たちがいて、大好きなところだ。ただ、最近Twitterで話題になった女子高校生の一重瞼の整形を促す電車広告などを見ると苦しくなるし、ほんとうに、これひとつだけでどこか他のところに逃げる充分な理由になるのではないかと思う(どこか他のところでも様々な抑圧や差別があるにしても、自国でこの苦さを味わう耐えがたさのようなものがある気がする)。
あーあ、もっとみんなが住みやすい場所になるといいですね。

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