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一番性悪なのはだれ?#1ー言語哲学編ー

私は現在意図せずギャップ・イヤー中のため派遣のバイトにいく機会がありますが、本記事は商品をピッキングする時にふと面白いなぁと思ったことを言語学的にお話しできたらなという回になっています。

ピッキングをする際、狭い棚と棚の間で他の人と道の譲り合いをしなくてはならなくなる場面があります。大抵の人は、「失礼しまーす」と言って勝手に背後を通り抜けたり、跨いで行ったり、また別の人は無言で通って行ったり。自分が通り抜ける時も大抵「失礼します」と声をかける。実は返事はあまりもらえず、体だけ動かしてくれる。でも時々声をかけても微動だにしないどころかこちらを無視してますみたいなスタンスを取る人もいる。多分、「失礼しないでください」ってことだと思う。それと、大抵の人は棚かぶりしてお互いを避けられないとわかると声をかける前に無言で体を動かして来た側が通れるようにしてくれるが、たまに見えてるだろうのに絶対に動かずに、「失礼します」と声をかけるまで全く道を譲らないというスタンスを取る人もいる。名付けて失礼します待ちの人。でもよく考えたら「失礼します」という言葉だけで「後ろ通ります」「ちょっとどいてください」という意味を含んでるの面白すぎるし、さらにそれが共通に理解されていることと、その上で「後ろ通ってほしくありません」「どいてほしいなら一声かけろ」という自分のスタンスを持っている人がいるのが激面白い。

だから、一番性格が悪いのはどのパターンなのかっていう検証。まず3つのパターンがいると考えました。といっても、1が通り抜ける人なのに対して2と3は通り抜けられる側の人なので、パターンと呼んでいいのかわからないけども。まあそこはいいのだ。
1)「失礼します」と声をかけるだけで相手がOKしてないのに勝手に通り抜けたり跨いだりしていく人
2)「失礼します」と言われても相手に配慮をせず微動だにしない人
3)通り抜けたそうな人が見えてても「失礼します」待ちの人

言語学的に紐解く記事なので当然「失礼します」という表現を分析したいわけだが、今回は特に関わりが密接そうな言語行為論の観点、語用論の観点と、きまりことばの一つである挨拶用語としての観点の3つから。

一つ目の観点に関しては4月から難しすぎて読み進められないでいる飯野勝己「言語行為と発話解釈ーコミュニケーションの哲学に向けてー」の本をもとにやっていくよ。(⇨※結局あまり理解できず、リンク先のサイトや文献を参考にしました)そもそも言語行為とは何か、発話解釈とはどういうことかというと、人は言語を使用することで文法的にことばを発しているだけじゃなくて行為を伴ったりしているよね、ということと、そうなると発話には話し手の意図が含まれることになるので、聞き手は話し手の発話をどういうプロセスで解釈しているのか、という話になる。みたいな感じ。

アルバータで言語人類学を受講してた時も少しやった覚えがある。(その時Top Hatというアプリで匿名クイズみたいなのをやるんですが、間違えてる仲間が少数の時の焦りがまたハンパないのよ。)その時は名付けるという社会的行為についてだったんだけど、例えばドラえもんが「この空を飛べるようにする道具をタケコプターと名付ける」と言ったとしたら、それは単にそれを口にしただけではなくて「[動] name(名付ける)」という社会的行為を遂行したということになる。こういうのを『行為遂行的発話(performative utterance)』といって、発話には遂行性があると提唱されています。(※遂行性だけでなく、記述性という性質も内包していると言われており、事実確認的発話(constative utterance)がそれに当たります。「今日は晴れている」みたいな事実を述べる平叙的な発話のこと。)それから、例えばのびママが「宿題やりなさい」と、「命令」という行為を伴う発話をした時、のび太がそれによって宿題をするという行動を引き起こされることになるが、そのように発話によって相手の行動や心情に影響を与える場合はそれを発話媒介行為と言います。

こういうわけで話し手は発話によって発話行為:locutionary act(ただ発するだけ)、発話内行為:illocutionary act(発話において発話行為とは別でなされている行為)、発語媒介行為: perlocutionary act(発話によって相手の行動や感情に関与する行為)という三つの行為を遂行していると言われているよ。

概要はこんな感じにして、実際に「失礼します」がどこに当てはまるのか考えてみると意外と難しい。なぜなら、「失礼します」は発語内行為的には「どいてほしい」という「依頼」かもしれないし、「ここ通ります」という「宣言」かもしれない。期待される行動が「聞き手が退くこと」だとしたら発語媒介行為の要素も含んでいることになるが、発話内行為が「宣言」の場合は必ずしもそうではない。むしろ聞き手側からの「はーい」「どうぞ」とかを待ってるかもしれない(聞き手に返事をさせるという発語媒介行為)。なので「失礼します」という発話から推測できるパターンは以下のようになると考察。

ア)発話行為:「失礼します」
  発話内行為:「どいてください/通らせてください」(依頼)
  発話媒介行為:聞き手が実際に退いたり道を譲る

イ)発話行為:「失礼します」
  発話内行為:「ここ通ります」(宣言)
  発話媒介行為:該当なし(※もしあるとしたら聞き手が実際にそれを把握する
         /返事をするとかになるのかなぁ。)

こうやってみると、アの場合「失礼します」だけで勝手に通り抜けたり跨いでいくパターン1の人に非はないような気がする。むしろそれを無視するパターン2の人の方が逸脱なのでは。それとも実際に聞き手が行動を起こさない限りその発話は発話媒介行為として認められないのだろうか。うーむ。でも「依頼」だからなぁ。その場合許可なしに通り抜けるのはチョットよくないよねぇ。やっぱり聞き手の行動に影響を与えてる気がするけど(少なくともそういう意図を含む発話な気がする)。パターン3の人はこの辺りを滞在的に理解している上で発話媒介行為を遂行するための発話待ちなのだろうか。もしかしたらパターン3の人に関しては言語学的な観点では分析できないかもしれない。むしろコミュニケーションとか心理学の方にもう少し寄らないとかも。そもそも「失礼します」待ちの人に違和感を覚えるかどうかも人によるかもしれない…気遣いとか、配慮みたいなところあるからなぁ。イの場合はパターン1も2もコミュニケーション上おかしくはないことになる。むしろこっちなら話し手が発話後勝手に通り抜けたってその発話内行為は依頼ではなくて宣言なので全く問題ないようにさえ思う。

同じ発話をしてもその文が依頼になるか宣言になるかは文脈(コンテクスト)次第だったりするので難しい。例えば「きのこ食べられる?」という質問文は発話者が続いて「私ダメなんだよねーなのに昨日給食で出てさ…」と続けるための導入部分であってただの質問かもしれないし、かと思えば場面が違えば聞き手の「うん」という返事のあと「よかった!昨日マッシュルームグラタン作ったんだけど作りすぎちゃって、よかったら持って帰らない?」みたいな勧誘かもしれないし。あ、「失礼します」にはあまり関係なかったかな?失敬失敬。

んふ、いやでもなんかさすがこの分野が言語哲学なだけあって話が哲学ちっくである。そしてやっぱり激ムズ!!
さて、発話の行為性や発話の中に発生している言語の力(force)のあたりはどんどん展開されて語用論的な観点への広がりにつながったらしい。というわけで明日は語用論の観点(発話解釈の話を含む)からつづきを書くよ。

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