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一番性悪なのはだれ?#2ー言語哲学編ー

つづき。前回は「失礼します」は言語行為論的にどう捉えられるかって話をして、「依頼」や「宣言」の発話内行為、それによって相手に実際にどいてもらったりする発語媒介行為なんじゃないかってところまでやりました。今回は発話解釈の部分に焦点を当てて少しまとめながら、発話内行為についても少し深掘りするような形で進めていきます。(思ったより言語哲学が長引いていて、語用論は明日になりそうです。)

今日こそは昨日挫折した飯野勝己『言語行為と発話解釈ーコミュニケーションの哲学に向けてー』を読みながら。言語行為のさまざまなありようを捉えるためにも、まずは話し手の意図と発話解釈の関係、そして実際に言語行為がどう解釈されるのかを見ていく必要がある。

話し手の意図といっても、なんとなく「聞き手に何らかの信念や何らかの行動をもたらすこと」(執行的意図)とコミュニケーション上の目的を達成しようとする意図、くらいでここではいいと思う。(※意図について本書ではかなり詳しく書かれているので正しくはそちらを確認してください。)話し手の意図は大抵の場合あまり意識されない。例外といえば、相手に不都合や不利益を生みかねない依頼などをするときにどうやってお願いするか考えたり相手に申し出させるように仕向けたり、そういう戦略的なものの場合か、騒音などで疑問文で聞いた内容が肯定文として捉えられた時に「〜って聞いてるの」と意図を明らかにする場合くらい。

それで、意図的に行われる行為っていうのは一般的にも自分の欲求を満たすためのもので、行為の対象に働きかけて望む結果を得ようとすることなわけですね。言語行為やコミュニケーション行為に関しては認知のギャップをもくろまない志向戦略的行為だとされている。(これを説明するにはさらに長引くので割愛。正しい理解には避けてはいけないところなのだろうけど。)結局のところこれと一個上の段落で話したことがどこにつながるかというと、それが以下の引用の部分。

発話によって行われる意味する行為や言語行為においては、両者の行為理解が一致し、それをもって望む変化を聞き手にもたらすことが、話し手に必要とされるのである。

そして聞き手もまた、以下のように求められている。

聞き手は、話し手の意中の付帯情報を援用し、意中の解釈を行う必要ーー少なくとも、そういう解釈を行おうとする必要ーーがあるのである。

なので、話し手は自分の望む効果だけを相手に理解させようと意図するだけではうまく成立せず、さらに聞き手にたどらせたい解釈プロセスについても自他の理解を一致させてそれによって当の効果をもたらそうと意図する必要がある、ということらしい。

そうは言っても、ぱっと見シンプルじゃない発話は意外とそこらじゅうに溢れている。面白いのが「解釈コスト」で、発話には解釈コストが多様なレベルでかかっていて、それが低い時もあれば高い時もあるらしい。例えばクローズドクエスチョンに対してYES/NOで答えるんじゃなくてチョットひねくれた答え方をするやつなんかは文脈を把握してないといけないコスト高めの発話になる。「釣りお好きなんですか?」「ちょっと、何年やってきたと思ってるの。」みたいな?(笑)でもたいていは同時にコストの埋め合わせもしているらしく、難しい言葉とか話の流れからの一個前の話の持ち出しは一見コストが高いことだけが目につくけど、実は内容に正確さをもたらしたり話のエンゲージメントを高めるというコスト埋め合わせ効果が期待できるらしい。だから釣りの例でも答えた側のアイデンティティとか「当然」感を伝達することができるので、必ずしも常にコストが避けなければならないものってわけでもないらしい。

なるほど、こういういろんな要素が絡んで発話解釈もまたいろんなレベルで行われるんだとか。じゃあその中でも発話内行為の解釈がどんなプロセスによってなされるのかを次に議論していこうと思います。

「失礼します」は発語内行為は昨日も考えたように、自分が通りますよという表明的な要素を持っているもの(信念タイプ)と、相手に道を開けてもらう依頼的な要素を持っているもの(行動タイプ)の二つの可能性があるように思う。それぞれのタイプの意図は以下に引用する通りです。

信念タイプの意図…提示されている命題内容を、聞き手自らが実現できない事態の表現と受け取らせ、それによって信念タイプの反応を得ようとする意図
行動タイプの意図…提示されている命題内容を、聞き手自らが実現できる事態の表現と受け取らせ、それによって行動タイプの反応を得ようとする意図

こう考えると「失礼します」は本書でいう行為拘束型と行為指示型の2パターンの発話として分析できるような気がする。これがどういうことかというと、発話はまずその命題内容から上記の信念、行動どちらのタイプの意図なのか(=聞き手が実現可能かどうか)で枝分かれする。行動タイプの意図の場合は行為指示型。信念タイプの場合はさらに分類が必要になる。その時の一つ目のフィルターが、話し手が実現可能かどうか。実現可能な場合は行為拘束型。不可の場合は主張型。さらにその有標性の有無でさらに派生してそれぞれ宣言心情表現型に分類される。

ここで自分が通りますよの意を示す「失礼します」の場合には、聞き手側にそれを把握してもらうという義務が発生するとしたらそれは本書にいう聞き手に制約を課しそれによってまた自己も拘束されるという形になってるため行為拘束型と捉えることができるはず。でも実際義務感はあまりないような気がしてる。どうやら単なる意図の言明(主張型?)というところに当てはまるとしたら、フィルター1つ戻って主張型として解釈されるらしい。なんでかというと、この場合の「失礼します」はすでにその行為の実行の決意が過去のものになってしまっているから。(失礼するのは1秒後とかの未来なんだけど、失礼することはもう既決の事態となっているということ。)こうなると「話し手が実現できない」ことなので、主張型になるんだねぇ。ということは、依頼タイプ「失礼します」は行為指示型、表明タイプ「失礼します」は主張型ってことかぁ。

ここまでで「失礼します」の発語内行為がどんなタイプなのかを見てきました。個人の見解だけど、この二つのどちらに最終的に到達するかは聞き手に委ねられているような気がする。それこそ文脈や、途中述べた解釈コストから聞き手は話し手の求めるように解釈することが必要だとされ、それができなかったら的外れとして位置づけられる。でも完全に聞き手がそれを担ってるんではなく、むしろ話し手が聞き手にたどらせたい解釈プロセスを意識してそれを得られるように意図しなくてはならないのだ。深すぎぃ。

この観点だと一番性悪なのは誰か、の話に戻った時、考えられる可能性は以下のようになると思う。まずは「失礼します」が「行為指示型」の場合、声に出してから勝手に跨いだり通り抜けていくのは失礼。なぜなら依頼してるのに一方的でほぼ強制的だから。でもよく考えるとその意図を持っていた場合、実際に返事を待たずに通っていくというのは少し考えにくい。発話者は聞き手にどいてもらうことを意図しているのだから、相手が退くのを待つのが最も想定されるべき反応で、これがために勝手に通り抜けるパターン1の人はそもそも「行為指示型」ではなくて「主張型」と考える方が適切な気がする。なのでどうやらパターン1の人には非がない事になる。ちなみにもし本当に行動タイプの意図でやってるなら完全アウトと思ってしまうが、でもそれは聞き手との解釈のズレなのかもしれない。そうなると望んでいた結果が得られなかったから強行突破する、という表出た性悪さの他に、聞き手にうまく自分の望む解釈プロセスを辿らせるよう仕向けることができていない、という言語行為としての失敗みたいなのを読み取れる。
パターン2のような「失礼します」と言われても動かない人というのもまた同じように、「行為指示型」だということに発話解釈で辿り着けなかった失敗的な場合か、「主張型」だったために動かなくてもいいという選択ができた場合かの二つの可能性があり、発話解釈とそこにおける話し手・聞き手のズレ次第ということになる。後者の場合パターン2の人は性悪とは言えないが、前者なら少なくとも話し手にそう思われても仕方がなくなる。
パターン3の人は前回と同じく発話前の聞き手のスタンスなので言語哲学的には分析できない?あるいは、私には少なくともその力がありません。言われれば退くという点では話し手の行動タイプの意図が伝わっていると捉えることはできるけど、この一連の言語行為論の話から彼らが性悪かというのは結論づけ難い。

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