PERFECT DAYSが描く“何気ない幸福”が罪悪感を軽減させる

全ての人生が愛おしい、と思わせる映画の何が危険なのか、PERFECT DAYSを見れば分かる。

この映画は、明らかに社会的に弱い立場にあるトイレ清掃員を、規則正しい生活を送り、足るを知る幸せな人として描き、またホームレスをファンタジー的な存在として描く。東京に住む/訪れる中間層以上の人たちがトイレ清掃員やホームレスを見るときに抱く、罪悪感を軽減させることに成功しているのではないか。

あの人たちは、あの人たちなりの幸せがある。だからわたしはやましい思いをせずに、わたしの消費生活社会を楽しめるというわけだ。

この映画はまるで、平山が資本主義的な価値観とは無関係に、写真、本、音楽、人や自然とのふれあいを通じて、何気ない幸福を送っているかのように描いている。

しかし、平山の“何気ない幸福”は、資本主義的な価値とは無関係ではない。平山は、資本主義で価値が高いとされているものに、リーチ出来ている。売れば高値がつくカセットを所有し、同僚が高い金を払った若い女にキスされるのである。
平山が音楽を聞くのがSpotifyだったら、平山にキスをするのが公園のOLだったら、この映画はこんなにクールな作品にはならなかっただろう。クールなものは資本主義に回収されていくし、資本主義がクールを生み出す。

東京に住む筆者は、この映画を観て、知っているはずの風景が異化(エキゾチックなものとして消費されるべきものとして描かれる)されていることになんとも言えない違和感を感じたし、名セリフを今からいいますよ、ほら、ほら、ほらー!!!的な演出がクサく感じた。でも、これを東京じゃない場所、日本語じゃない言語でやられたら面白かったんだろうなと思う。無邪気に楽しめたと思う。しかし、東京、日本語でやられてしまうと、途端にイノセントな観客として無邪気に消費することが出来なくなってしまった。汚物や臭さと無縁のクリーンなトイレ、役所広司のシミのないきれいな肌、そういうものをリアルに感じられるほど、無知に、盲目的になれない。


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