学校の授業はつまらない/塾の授業は楽しい

 学校の授業がつまらなかった人はどのくらい居るのでしょうか。
 アンケートを取ってみれば、5割が「つまらない」、3割が「どちらかというとつまらない」、1.5割が「ふつう」、0.5割が「面白い」くらいの割合になるんじゃないかなと思います。
 一方で、塾の授業がわかりやすい/楽しいと感じていた人は、(少なくとも、学校と比べて)それなりに多いのではないだろうかとも思います。このあたりの理屈をつけながら、学校の授業との折り合いの付け方を考えていきたいと思います。


1.人の話を聞くということ

 まず、授業に限らずの話ですが、人の話を聞くのはとても疲れるものです。

 私たちが受け取る情報には全て「密度」のパラメータがあります。情報密度は情報量を時間で割ることによって得られます。
 例えば、難しい単語が並ぶような文章は、情報密度が大きいと言えます。逆に、中身は同じでも、「えっと」や「あのー」、「めちゃくちゃ」といった間投詞・接続詞が多くなったりすれば、情報の量は変わらずとも、その密度は小さくなります。
 授業について言えば、授業の進むスピードとその内容によって、密度が決定されるわけです。

 人は誰しもに適切な情報密度があります。

 適切な密度より大きな密度を持つ情報が流れてきたら、情報の処理に徐々に負荷がかかっていき、人は強いストレスを感じることになります。
 そして、知識欲や知的好奇心、あるいは単純な処理欲などよりも情報を受け取る/処理する際のストレスが上回ったとき、人は考えることを投げ出してしまうのです。
 難しい本を読んでいて「わかんね!!!」となるときなどがそれです。人は本能的に楽な方に行こうとしますから、ストレスを感じない方を選んでしまうわけですね。

 逆に情報密度が少なすぎるのも、それはそれで問題です。
 動摩擦係数より静止摩擦係数の方が大きいように、物事は何であれ、動き出すときに最もエネルギーを要するものです。それは脳も一緒。
 情報量や処理量が少ないと、脳はストップ&ゴーを繰り返すことになります。これは単純に頭を働かせ続けるよりもストレスがかかることなのです。

 皆さんは本や漫画を読むのに没頭した経験はあるでしょうか?
 もしそういう経験があるのなら、その没頭していたときの読書速度が、あなたにとっての適切な情報処理速度(=情報密度)だと考えることができます。
 巡航速度(最も燃費の良くなる速度)のようなもので、情報のインプット量と処理量がちょうどつりあったとき、目の前の情報以外に余計なことを何も考えなくなり、文字通りの"没頭"が発生するのです。

 没頭がしたいのなら、映画やアニメといった受動的な情報処理ではなく、読書などの半受動的な情報の処理をすると良いです。読書は自分でペースを決められますから、読書が"得意"な人は本当にすぐに没頭ができます。

 あるいは、人と会話をしていて、「あ、もうこんな時間」となるのも没頭の一種です。
 これもやはり、相手と自分との間で交わされる情報量が適切だからこそ起こりうる現象です。自分が没頭しているとき、相手も没頭している事が多い(あるいは、独りよがりなコミュニケーションによって相手が辟易しているかの二択)ですから、そういう人とは「話していると楽しい!」となるわけです。


 話を学校の授業に戻します。
 つまるところ、学校の授業は没頭から程遠い体験なのです。それは、授業が早すぎるという場合もあり、遅すぎるという場合もありますが……。
 「ペースが合わない」というのは、単に「授業は中位層をメインターゲットにしているから、上位1/3と下位1/3が合わない」というわけではありません。
 先の話の通り、少しでもペースが合わなければ、徐々にストレスが溜まっていったり、逆に無駄な脳のストップ&ゴーが発生してしまいアウトなのです。授業のペースが丁度良いと心の底から感じている子はせいぜい1割ほどでしょう。

 多くの子供にとって、授業における情報処理はムダがとても多い。このことは、得るもの(新しい知識や論理、およびそれを知った/理解したときの、驚きなどの正の感情)に対する徒労感が大きいと言い換えることもできます。
  徒労感はストレスの中でもだいぶ悪性の強いものですから、多くの子供は授業を本能的に嫌うようになるのです。

2.中身の薄い週刊連載

 皆さんはワンピースを読んでいますか?
 僕はマメに読んでいます。
 昨今様々な連載漫画がありますが、ワンピースほど売れている漫画はありません。
 ワンピースが受け入れられる理由はどこにあるのでしょうか?

 ワンピースはストーリーがよく練られているとか、熱いメッセージ性があるとかいうのはよく聞きます。
 が、僕個人の見解では、そうではありません。

 コンビニでジャンプを開いたとき、僕はワンピースを開いているときが一番落ち着きます。理由は、先程の話に関連しますが、1ページ内における情報量がちょうどいいから

 「ワンピースはセリフが多いから~」とは多くの人が言うことですが、しかしながら「セリフが多いから読む気失せるわ」となる人は少ないです。結局、ワンピースくらいの情報量が丁度いいんです。

 特に、僕みたいに月に1~2回ジャンプを読む層にとっては、あれくらいの情報量であれば十分追っていけるんです。
 他の漫画はほとんど追えません。1話内の情報量が少なすぎて、話がぶつ切りになってしまうからです。

 ワンピースも話がぶつ切りになるのは間違いないんですが、それでも各話必ず程よい量の情報を供給してくれるおかげで、1話1話を楽しんで読むことができます。1話ごとのパッケージ化が上手だと表現すればいいんですかね?
 そのおかげか、ワンピースは読後感が良いんです。
 
 話の構成が~とかメッセージ性が~といった理性的な部分ではなく、「(1話あたりの/1ページの情報量が)なんとなく心地良いから」という本能的な理由で評価を受けることによって、あれだけ長くても皆飽きずに連載を追いかけることができるのだと考えられます。

 この話を学校の授業に当てはめてみます。

 中学2年生では「1次関数」を学びます。一般的な公立中学校ではこれを15コマ前後で履修します。
 履修内容をもう少し具体的に挙げると、①関数とは何か ②グラフの書き方/変域・値域 ③関数と方程式の関係/関数の利用 の3つに大別されます。

 この3つの内容で、計15時間です。
 単純計算で、各内容に5時間ずつ割り当てられることになります。

 ここで、先程ワンピースの例で述べたように、「1話2分のアニメでストーリーを追えますか」という話になるわけです。
 話を細分化しすぎるせいで、一連の流れを理解しづらいものにさせてしまう。1次関数に15授業時間もかけてしまうと、話がぶつ切りになってしまうのです。

 細分化されすぎた授業内容は、さらに1で述べたように、子供たちにとって適切でない情報密度でもって伝えられることになる。
 つまり、生徒たちにとっての授業は、「話の流れがよくわからない上に、真面目に聞いてもストレスが溜まるだけ」のものなのです。連載中の漫画を途中から読む気になれないのと全く同じ理屈です。

 ストーリーは追いかけやすくなければならず、追いかけやすくするためには、ひとつの話がキリの良いところで終わる――すなわち、毎回の授業はしっかりとしたパッケージ化がなされなければならないのです。
 

3.学校という魔界

 さて、皆さんは学校の先生が好きでしたか?
 というかそもそも学校は好きでしたか?

 僕は学校も、学校の先生も嫌いでした。
 当然、仲の良い先生もいません。
 成人式では僕は先生に色々と話しかけられたほうだと思いますが、大人になるとますます教師と反りが合わないのが分かってしまうというか、「あ、俺って本当に先生が嫌いなんだな」と自覚したものです。
 なんというか、「よかったな」と思った事自体はあるのですが、「この先生で良かった」ではないんですよね。それが先生である必要性がないというか……。

 ともかく。
 例えば、新学期の初授業で、英語の先生は大抵こんなことを言います。
 「皆さんが英語を好きになって貰えるような授業をしていきたいと思いますから、皆さんも私の授業を楽しんでください」と。

 この言葉には、数多くの問題点が存在しています。

 まず、英語を好きになる/楽しむことを求められていること。

 英語が好きになる以前の問題で、そもそも1や2で挙げたように、授業は内容がぶつ切りの上に自分好みの情報密度でも無いわけで、受けるだけで多大なストレスと虚無感を得るものです。

 「ストレスと虚無感の根源たる授業」を好きになることを求められても、ほとんどの子供は受け入れることはできないです。
 中学生にもなれば、特に女子は精神的に成熟してくる子も増えてきて、理性的には授業を受け入れることはできるでしょうが、本能的に感じるつまらなさや情報処理の無駄に由来するストレスは避けられません

 授業を理性的に受け入れてしまうことには大きな問題があります。
 本能的につまらない」と理性的に楽しい」の折り合いは、本来ついてはいけないものなのです。もしこの両者の折り合いをつける技術を身に付けてしまうと、子供はストレスを「誤魔化す」のが上手な大人に育っていきます。

 ストレスを「我慢する」のと「誤魔化す」のとは全くの別物です。

 プロフェッショナル(仕事を仕事として割り切る人)の対義語は職人(仕事と生活が融合している人)だと考えています。プロフェッショナルはストレスを我慢して、「めんどいけど仕事だからやるか」となる人。職人はそもそもストレスなど感じず、生活の一時でさえも仕事のことを考え続けている――すなわち仕事に没頭している人のことです。

 ストレスを誤魔化した結果待ち受けるのは、プロフェッショナルにも職人にもなれなかった哀れな人間です。
 頭では「目の前のこれは楽しいものだ」と考えて情報を処理しているのですが、しかし心の奥底では「これはつまらないものだ」と思っているわけです。当然、このような矛盾を抱えたままでは、仕事の効率は上がらず、かといって創造力が鍛えられるわけでもない。ただただ精神的な消耗を続けることになります。

 もう一つの問題点として、発言者――すなわち教師自身にも問題があります。
 わりと根本的な原因でもあるのですが、端的に言えば、学校という空間はそもそも学校が嫌いな子に対する配慮ができるような仕組みを持っていないのです。

 学校は、学校が好きな人間(=教師)によって運営され、その教師が「こんな学校/授業にしたいな」という理想を実現する場です。運営側は基本的に全員学校が好きな人間であり、したがって、彼らは学校が嫌いな子供の考えを真に理解することができないのです。
 学校の先生を指導する立場の教育学者たちも、教育に携わろうと考えている点で、やはり学校嫌いの子供とは本質的に相容れない。
 こうして学校は、学校嫌いの子供から遠ざかるようなサイクルを歩んでいくことになります。

 子供はそういったところを本能的に感じ取ります。だから教師は子供を懐柔しきれず、一度隙を見せれば、「やっぱりこの人はぼくの味方じゃなかった!」と距離を置かれるわけです。
 逆に「面白くなかった学校をどうにかして変えたい」という熱量を持っている先生も一定数いますが、彼らはそれなりに人気があったように思われます。生徒との間に本質的なシンパシーを得ているからです。

 教師の資質にも問題があります。
 公立小学校や公立中学校の教師は、テストの順位で言うと、100人中10位~30位くらいの間に収まる人たちがメイン層です。
 彼らは学力のトップ層ではない、つまり本質的には勉強が得意な層ではないということです。
 実際、彼らの教師の志望理由は「子供が好きだから」が大半です。「勉強が好きだから」で教師をやっている人は殆ど居ません。そういう人たちは皆、塾講師や進学校の教師をやっています。

 教師の学力を貶すつもりはありませんし、実際、子供に指導するには十分な学力だとは思います。しかしながら、彼らは真の意味で勉強での成功体験を積んできたわけではないのです。
 勉強における成功体験に乏しい教師が、他人に、それもまだ未熟な子供相手に、上質な成功体験を提供できるか?という話です。「英語が好きになって貰えるように――」という感情の押しつけから始まる授業は、粗悪な成功体験の第一章というわけです。

 このように、「子供が好き」という教師の資質と「勉強を教える」という教師の業務内容のミスマッチが、学校を気味の悪い空間にする。そして、一度学校嫌いになった子供は、学校が教師が集まって作った空間であるという性質上、二度と学校が好きになることはないのです。
 学校が嫌いな子供にとって、学校という空間はアネクメーネそのものです。どれだけ好きになってもらえるように教師が努力をしたとしても、学校はあくまで魔界であり、子供たちにとって教師は異形の(しかも、子供より強い力を持った恐怖の)住人なのです。


4.塾が楽しい理由/つまらない授業を受け入れよ

 ここまでの流れから、塾が楽しい理由もなんとなくお分かりいただけたかと思います。あるいは、高校に入ってから勉強が楽しくなったという幸運な方も、その理由を説明できたかなと思います。

 塾は「勉強するための空間で、勉強を教えるための人間が、勉強を教える」場所ですから、塾は目的と指向性と実際の活動内容が一致しているといえます。

 第二に、授業内容についても、塾は多くが1コマ60分~120分と長時間であることから、1回の授業内容で起承転結の全てを得るので、話がまとまって感じられるということ、そして、似たような学力層が集まる空間であることから、授業のペースや難易度も心地よい(ことが多い)ということが挙げられます。

 高校についても似たような話が適用できて、高校教師は公立小中の教師よりは勉強志向が強い人達が集まっていますから、高校の授業空間は中学の授業よりは自己矛盾性も少ない。楽しい人は本当に楽しいと感じられるようになるわけです。

 では、学校の授業がつまらないなら、それを受ける価値が無いのかと言うと、それはそうではありません。つまらない前提で、授業は極めて重要な能力を磨く場となります。

 学校の授業がつまらない子供には、学校の授業はストレスと上手に向き合う訓練の場になります。というより、そういう別の見方を与えてやるべきです。

 理解が人より早い子にとっては、人の話すペースに合わせるのは疲れるし退屈なことかもしれませんが、それでもやはり、相手に合わせるというのはコミュニケーションの基本です。自分のペースでばかり物事を処理していると、必ず独りよがりな人間が出来上がります。
 理解が早い子は、授業をそういう社交能力の訓練場として使えば良い。

 理解が遅い子も同様で、人の話を聞くのが上手になるための練習の場だと思えば良い。
 人の話を理解するためには話の要点を掴む必要がありますが、この要点は人によって異なります。授業を受ける前に予習をすることで、その要点をあらかじめ把握しておく。
 チェックポイントを残しておくけば、メリハリのある情報処理ができます。処理能力を超える情報密度の場合は、こういった工夫をして、オーバーヒートしない取り組みをすることが必要です。

 あるいは、勉強が得意な子にしろ苦手な子にしろ、「俺は授業が嫌いだ」という前提のもと、「嫌いだけど将来のために頑張る」という前向きなストレスへの耐え方を身につけることも大切です。
 こういうスタンスの耐え方を学んでいけば、精神的に安定した人間に育ちます。仕事ができない気分屋の人は、学校でこういうプロフェッショナルなメンタルのあり方を学んでこなかった上に、何かに没頭するような体験もしてこなかった人なのです。そうならないような訓練の場にすることはできる。



 長々と書きましたが、学校はつまらないことを受け入れるところから全てが始まるのだ、という話です。無理に否定するものでもないし、実際つまらないものはつまらない。

 つまらない原因は学校の先生や学校教育のあり方に多くがありますが、しかしそれを糾弾したところで問題が解決するわけではない(解決するかもしれませんが、それには何年もかかります。子供の成長は待ってくれない)。
 つまらないなりの付き合い方を身に着けて行くほうが、建設的で結果的にはストレスも少なくなるんじゃないか?という話でした。

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