見出し画像

浴室は泣くのに丁度いい

「おれ透析の手術することになったんだ」

「え」


わたしの父は腎臓が悪い。
もう10年近くはなるだろうか。

気がつけば薬の量は10種類以上。

いずれそうなる運命だったが、ショックを受けている自分がいた。

透析治療がすぐ始まるわけではなく、いつ始めてもいいようにする為の手術である。

手術の日までは3週間以上ある。
未だ実感が湧かない父は、思ったよりも平気そうに見えた。

気になっているのはわたしと母で、術後の姿や生活がどうなるのだろうと心配して、
いろいろ質問をしてしまう。
覚悟をしている父の口調が、少し荒くなるのを感じた。

わたしと父は似ているから分かる。
不安がそうさせているのだと。

「調べるとそればかり考えてしまうから」
と、自己防衛していた。
うん、すごく分かる。


その日帰ってから、お風呂に入りながら泣いた。
浴室は号泣し放題だ。

別に死ぬわけでもない。
ガン告知されたわけでもない。
生きる為にこれから準備するだけのこと。

わたしが泣いているのは、親の老いを受け入れられない弱さである。

小さい頃から「変化」が嫌いなわたし。
小4の頃、姉が500km以上離れた大学に行ってしまうのがイヤで、
塞ぎ込んで学校を何週間か休んだり、過呼吸になったり。
そういえば、その時もお風呂で姉と語らって2人して泣いたっけ。

何かが変化すると、わたしの中のパズルが欠けたような感覚になる。

父のことも、いつまでも元気じゃない父になっていくのが寂しくなったのだ。

勿論、「いつまでもあると思うな親と金」の如くそれなりに覚悟して生きている。
70歳に近くなってきた父、高齢者の仲間入りをする母。
やはり頭でわかってはいるがその時が来たら辛い。
老いていくのを見るのも辛い。
いつまでも元気でいてほしいと願うのは我儘だろうか。


これから親は老いていく。
わたしは身近で、それを感じて生きていく。

こんなどうしようもない時、この言葉を思い出すようにしている。


有名な「ニーバーの祈り」
「神よ、わたしに変えねばならないものを変える勇気を、
どうしようもないものを受け入れる静穏を、
そしてそれらを見分ける洞察力を与えてください」


老いは抗えない。
わたしも親と同様に老いへと向かっている。


これから父の左腕には管が入る。
重いものは持てなくなるだろう。

それを見てまた、わたしの胸は少しチクリとするかもしれない。

今読んでいる本の中で、「老いるって当たり前の営み」という一文があった。

この気持ちを反芻して生きて、少しずつ受け入れていくしかない。
人生の過程の中で避けては通れないこと。

受け入れることへの時間はかかるだろうし、どうしたって後悔はする。

ただただ、親もわたしも悲観的にならず、
目の前の幸せを感じて生きていけますように。
今はこの想いが精一杯である。

老いは必ずしも寂しいことだけではないはず。
それを見つけていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?