中国輸入を始めて約4年がたちました

物販会社を経営しているコサットです。

0から中国輸入を始め、あと数ヶ月で4年がたとうとしています。

お盆休みのこのタイミングで、
今までの軌跡を綴っておこうと思い立ち、筆を取っています。

薄くなぞってもしょうがないので記憶の限り詳細に書こうと思っています。どれほどの長文になるかわかりません。

まとまったお時間があるタイミングでご覧いただけますと幸いです。



コサットの経歴

2006年:立命館大学(文学部)入学
2008年:広西師範大学(中国の桂林)に交換留学←ここで人生が変わった
2009年:立命館大学を休学、中国の上海財経大学に自費留学
2010年:日本帰国、独学で中国輸入(タオバオ→ヤフオク)を始める
2012年:立命館大学卒業、富士通株式会社に入社、中国輸入やめる
2020年:富士通株式会社を辞職、動画編集のフリーランス生活、コロナ禍
2020年6月:Amazon OEMの中国輸入スクールに入塾、コンサルを受ける
2020年10月:1商品目を販売

2020年1月


ずっと辞めたかった会社を辞めた。

会社が嫌だったというよりは、会社員という生き方が心底合わなかった。

時間、給料、スケジュール、仕事内容、自分で決められることなんて
何もないことに尋常ではないストレスを感じ続けた。

自分の人生なのに、ほとんどのことを他人に決められる人生。

「向いてない」という言葉が全てを言い当てているくらい、
何もかもが向いてなかった。

当時はみんなが同じスーツを着て出勤する中、
自分だけジャケパンスタイル(しかも白パン!)で出勤するような奴だった。

仕事がバリバリできるエリートならわかるけど、そういうわけでもなく、
どれだけ仕事が残っていても毎日定時で帰る地獄みたいな若手社員だった。
(なぜか先輩方にはよく可愛がってもらえた)

天に向かって唾を吐き続けた。
無条件でがんじがらめにされる誰が決めたかわからない社会のルールに
逆らうように。

約8年も辞めなかったのは、

辞めてどうする?
収入は?
何をするの?
何がしたいの?
何ができるの?

これらの問いに答えが出せなかったことと、
節目節目で手を差し伸べてくれた会社の先輩方がいたこと。

ただ、これ以上続けると気が狂いそうになっていた。

気づけば年齢は30歳を超えていた。

理屈ではなく、お世話になっている人がたくさんいるからとかでもなく、
そんなことに構っている場合ではないくらい心の叫びが大きくなっていた。

夜中にストレスで目が覚めることが増えてきたことが、
黄色信号が赤信号に変わった瞬間だった。

会社員の自分と理想の自分とのギャップにもがき苦しみ続け、
最期は身を投げるようにして会社を辞めた。

いつか会社を辞める時のための準備だと言い聞かせ、
自己啓発やブログ、カメラ転売、FX、FP2級の資格取得などに
手を出していたけど、収入源として残ったものなんて何もなかった。

自分は自分なりに「何か行動をしている」つもりだったけど、
現実は何もかもが中途半端で、何の結果も出せていなかった。

東証一部上場企業の会社員という肩書捨てることは、それまでの人生で
30数年も積み上げてきたものを捨てるということに等しかった。

上司に「辞めます」と言う時は、口から心臓が出てくるかと思った。

手先が震えていた。
言った後は、少し放心状態だった。

それまで相談に乗ってくれていたお世話になった方々に謝罪し、
目の前に敷かれていたレールから降りた。

・・・

辞めたら辞めたで、憑き物がおりたような気持ちになった。

もう何のしがらみもない。
誰かに指図されることもない。
面倒くさい人間関係で悩む必要もない。
これからは生きたいように生きる。

未来は明るかった。


会社を辞める直前から始めていた
動画編集のフリーランスとしての生活がスタート。

当時は副業としての動画編集が流行り始めたころだった。

大川優介さんやAUXOUTさんに憧れて、
動画クリエイターになることを志した。

普段はクライアントワーク、時間がある時は自分の中国語を教えるYouTubeチャンネルに積極的に動画を投稿していった。

最初は上手くいった。

動画編集のフリーランスとして生きていくことをFacebookに投稿した際、
有名な出版社の社員さんの目にとまり、いきなり月額30万円の契約をいただけたから。

必死で案件をこなし続けた。
指示されたことをやるだけでなく、
こちらから提案したり相手の期待を上回ることを常に意識した。

朝から晩まで作業に追われるようになった。
時給にすると割に合わなかったかもしれないくらい。

それでも会社という後ろ盾を失った自分にとって、
スタート地点でいきなりの月額30万円はあまりにも大きかった。

ただそれも、長くは続かなかった。
コロナ禍が本格化してきたことが最大の要因だった。

日本中がパニックになり、企業は外注化よりも内製化に舵を切り始めた。
仕事は徐々に減っていった。

当然、有名な出版社が自分のような無名かつ個人のフリーランスとの契約を継続する理由もなかった。

同時に、クライアントワークに対する疑問も強くなってきていた。

自分の人生を自分で決められるようになるために会社を辞めたのに、
結局はクライアントにルールを決められクライアントの意向1つで
仕事が増えたり減ったりする。

これって会社員としての人生と本質的には何も変わってないのでは?
ただ職場が自宅になっただけでは?
単純に収入が減った上に不安定な生活を選んだだけでは?

そう思うと、暗い絶望感に襲われた。

追い打ちをかけるように、失業保険が満期を迎えた。


2020年6月


結婚式、新婚旅行、クライアントワーク、案件獲得のための営業、自分のチャンネルのための動画制作、スキルアップのための勉強、コロナ禍など、
1月に会社を辞めてからあまりにもバタバタしすぎていた。

クライアントワークに疑問を持ち始めたこのタイミングで
もう1度棚卸しをしてみた。

①自分は何のために会社を辞めたのか?
②自分が今あるスキルは何か?

いろいろ考えた結果、
①は自分の人生を自分で選べるようになるため
②は中国語能力

ということに落ち着いた。

中国語を活かせるフリーランスの仕事の代表と言えば翻訳と通訳。
これは全く興味がなかった。
結局クライアントワークになることが目に見えていたから。

クライアントワークではない仕事で中国語が活かせるとしたら
インバウンド向け個人の旅行ガイドも考えた。

でも当時はコロナ禍の真っ只中。
インバウンドを狙った仕事は軒並み下火になっていた。
なにより、旅行ガイドがしたいとも思わなかった。

残りは何か。

10年前、自分が学生だった頃にやったことがあること。
しかもちゃんと利益がだせていたこと。

中国輸入だった。

閃きに近いものを感じた。
思い出したという方が正確かもしれない。

物販なら、クライアントとか関係なく1人でできる。

・・・

2020年6月にAmazon OEMを教えるスクールに入塾。
コンサルコースを選んでのスタート。

毎日のようにリサーチをしてはコンサルに添削してもらう日々。

動画編集の事業と並行とはいえ、時間だけはあった。
1ヶ月かけて大量の動画コンテンツを拝見しインプットした。

自分なりにこれだという商品は何個か見つけたが、
なかなかコンサルからのGOサインが出ず、日に日に焦りが募っていく。

この頃、人生に先行きが見えない不安から、毎晩走るようになった。

1日中リサーチして1商品も見つからない日は、
ストレスと焦りでやるせなくなった。

時間だけは残酷に過ぎていく。

毎晩走っていた東京都大田区にある洗足池公園でなんとなく撮った写真(2020年6月12日19:01)

公園には神社もあり、真っ暗の境内に入って一人で拝むようにもなった。

真夜中のベンチに座り込んで立てなくなった時もあった。

そんな姿を妻に見せるわけにはいかなかった。

襲いかかってくる不安に抗うように、毎日必死に走り続けた。

・・・

そんなある日、添削いただいた商品に対してコンサルからGOサインが出た。
しかも立て続けにGOサインが出るようになった。

待ちに待ったGOサイン。
めちゃくちゃ嬉しかった。
やっと自分にもリサーチ力がついてきたと思った。

1商品では不安なので、5商品GOサインをいただくまでリサーチした。

これが地獄の始まりだった。

・・・

・代行業者の選定/担当者とのやりとり
・1688の仕入先の選定
・デザイナーへのディレクション
・amazon攻略の日々のインプット

商品が決まったら決まったでやることは多岐に渡り、
しかも何もかもが始めてのこと。
わからないながらに必死にPCと向き合った。

特に仕入先の選定およびサンプルの品質検査・安定には時間がかかった。

何度も中国とやり取りをしているうちに季節は変わり、9月になっていた。

まだ収入が安定しない状態で、妻が妊娠していることがわかった。

この頃は動画編集の案件を少しずつ減らし、
中国輸入に振り切ろうとしているタイミングだった。

妊娠がわかった時の妻の表情は一生忘れない。

今まで生きてきてこんなに嬉しいことはない。

そんな表情だった。

満面の笑み。
本当に心から嬉しそうだった。

自分は妻の妊娠が嬉しいのかどうか、
当時の感情はもうよく覚えていないけど、

素直に心から喜べていただろうか。

・・・

一方で、ようやく1商品目のリリースが決まった。
コンサルを受けて3ヶ月以上がたっていた。

1商品目から素材・デザインを全てOEMし、満を持してリリース。

結論、1商品目は失敗に終わった。

敗因は多すぎて書ききれない。
何もかも全てがダメだった。

抱いていた期待が大きすぎて、ショックで前が向けなくなりそうだった。

とはいえ小さくて軽い商品なので余った在庫も段ボール2箱分くらい。
単価も低単価なので大した損害ではなかった。

しかもこの商品は後に楽天で爆売れすることになるとは、
この時はまだ知らない。

と、ここまでならよくある話。

このポストを見ると血の気が引いた。


4商品と書いているがサンプルの完成が遅れているだけで、
あろうことかコンサルからGOサインが出た5商品を全て同時進行していた。

なぜそんな暴挙を?しかも未経験で。
と、10人いたら10人が思うはず。

経験したことがない人にはわからないかもしれないけど、

大人になってまともな収入がない状態の人というのは常に焦っていて
往々にして冷静な判断ができないもの。

こんなの、この1ポストだけで上手くいかないことがわかる。
案の定、寿命の短長はあれど最終的には全て撤退。

結論、大失敗。

原価で売ってトントンだったのか赤字で売りさばいたのか覚えていないけれど、OEM開発費、デザイン費、広告費なども加味すると5商品分で
いくら失ったのか想像するだけで恐ろしい。

「・・・そんな暴走をさせないためのコンサルなのでは?」

多分だけど、今思えばコンサルの方は自分の対応に面倒くささを
感じていたかもしれない。

明らかに質問や添削の量が他の生徒さんと比べて膨大だったはずだし、
最後の方は雑になってきてた。

相手だって人間だもの。
この頃は自分も時間単価の考え方なんて知らなかった。

質問の仕方や市場選定、仮説や戦略の立て方、競合との差別化、
何もかもが未熟でめちゃくちゃだったはず。

今ならわかるけど、
コンサルの受け方とは「答えを聞く」ことではない。

判断丸投げで大雑把に質問をしてしまうと
コンサルも答えようがないし、何より嫌がられる。

同じ商品を販売しているわけではないし、答えなんて誰にもわからない。
責任逃れをしようとしている質問というのは相手にも伝わるもの。

コンサルの正しい受け方とは、
自分が立てた仮説から考えられる結果・想定に対し意識合わせをすること。
コンサル側の知見から自分より精度の高い想定と助言を引き出すこと。

これこそがコンサルを活かす方法。

って、そんなこと当時はわかるはずもなく。

自分の焦りも伝わっていただろうし、もう面倒くさすぎて
とりあえずエイヤでGOサインを出した、のかもしれない。

その証拠ではないけれど、いま思い返せば、自分がコンサルをやるとしたら
控えめに言ってもGOサインは出さない商品ばかり。

果たして添削とは。
と思わなくもない。

売れないものは売れない
売れないものに差別化なんて必要ない
本当にOEMする必要ある?

今の自分ならいろんな角度からお話して全力で生徒さんを止める。

ましてやOEM商品を5商品同時リリースなんて商品を見なくても秒で
「やめてください」とお伝えする。

ではコンサルが悪かったのか。

そうではない。

動画コンテンツも充実していて質問をすればちゃんと返してくれる。
勉強会も毎月あって他の生徒さん方と交流の機会もあった。
とにかくゼロスタートの初心者にはありがたい環境だった。

何より自分は元から他責思考がない人間なので、
この結果でコンサルを恨んで寝れなくなるようなことはなかった。

今振り返っても、やっぱり追い込まれすぎが原因だったと思う。

収入が確立されていないことから精神的に追い込まれ、
視野が狭くなり、情報を鵜呑みにし、結果を急ぎ、
重要な判断を他人任せにした自分が招いた結果だった。

それ以外のなにものでもない。

でも、

貯金があからさまに減っている現実と向き合うと、
胸をえぐられる思いだった。

会社を辞めて、10ヶ月がたっていた。

・・・

とにかく時間と資金がかかるamazon OEM。
このペースではとてもじゃないけど貯金が減る一方でしかない。

しかも今の自分の実力ではOEMしたところで売れるかどうか、
売れ続けるかどうかの確証が持てない。

まともな収入がない今の自分にはまず生活費となる収入源が必要。

かといってまた別の事業をするのはノウハウコレクターに戻ってしまう。

今までのスキル、今までの経験でできることをしなければならない。
もうこれ以上の失敗は許されない。

今の自分に何ができる?

それがメルカリ×中国輸入だった。

きっかけは両学長の中国輸入の動画を観たことだった。

OEM5商品リリースと同時にメルカリも進めていた。
それくらい何が何でも結果を出さなきゃいけない状況に追い込まれていた。

この10月末で利益5万円ということは、
時系列的に初回発注か2回目の発注でいきなり利益が5万円出たということ。

これをきっかけに、amaonでは長期的な商品開発、ページ育成の視座に変更し、メルカリ×空輸で短期的に回転させながら生活費を得る両輪でやっていく方針ができあがった。

メルカリはコンサルなど受けず完全に手探りでやっていったので
自分がやっていることが合っているのかどうかわからず、
常にXで記録していくようになった。

全部同じ日のつぶやき。

誰も自分の投稿なんて見ていないのでとにかく自分がやっていること、
思っていることをメモ代わりに毎日何回も殴り書いていった。

amazon攻略で四苦八苦している傍ら、
やればやるほど売上利益が大きくなるメルカリに没頭していった。


2020年12月


妻も会社を辞職し、出産の準備に入った。
二人とも会社を辞めたことで東京に住む理由がなくなり、
2020年の年末に自分の地元である関西にUターンすることにした。

妻が出産するまでは部屋を借りず実家に居候させてもらうことに。
家賃がかからないこの時期は本当に親に助けられた。


2021年1月


2021年前半はメルカリを事業として構築していった。

リサーチの外注化
画像作成の外注化
実家の物置を倉庫化
ツールの導入

実績もどんどん伸びていった。

メルカリだけで初めて月商100万円を達成した。
広告費はないから手残りで少なくとも30万円は残るようになった。

この時、やっと、会社を辞めて初めて希望を感じられたかのように思えた。

でも、それも長くは続かなかった。


2021年5月


娘、生まれたて

ホテルでの2週間の隔離期間を終え、台湾にて妻の出産に立ち会った。

へその緒を切らせてもらった。
びっくりするくらい硬かった。

台湾ではPCを4台持参し、遠隔でメルカリを操作。
発送は時給を払って実家の母にやってもらった。

精神的にもギリギリの状態だった。

2021年6月


1年前に入塾したamazon OEMスクールのコンサル期間が終わった。

結局、コンサル期間中に大きな結果を残すことはできなかった。
むしろ貯金を大きく減らしただけだった。
積み上がったものもなかった。

懇親会に参加しても、失敗しかしていない自分がgiveできることなんて1つもなく、落ちこぼれを絵に描いたような存在だった。

強調しておきたいのは、
このコンサルには恨みどころか感謝しているということ。

コンサルの反面教師として感謝しているとかそういう皮肉ではなく、
素直に心から感謝しているということ。

というのも、自分が在籍していた当時はコロナ禍の真っ只中。
飲み会を控える風潮や店を閉める飲食店も多いご時世で、
毎月懇親会を開いてくれた。

家で引きこもって物販をしている自分にとって、
初心者すぎて右も左もわからない自分にとって、
コンサルを受けているのに結果が出せず不安に襲われている自分にとって、

同じ中国輸入をしている同業者と交流できる環境は
これ以上なくありがたかった。

いま思えば不思議だけど、いつからかこのコンサルは懇親会だけでなく
少人数の内輪の飲み会にも自分を呼んでくださるようになった。

自分を呼んでも何のメリットもないはずだけど、
面倒くさすぎるけど危なっかしくて放っておけないコンサル生的な
そんな見方をしてくださっていたのかもしれない。

ここで知り合った何人かの同業者と、
2024年の今でも毎月のように飲みに行き、時には旅行に行く仲になった。

コンサルに高額の費用を払おうと、期間中にその費用を回収できなかろうと、一生付き合っていきたいと思える人たちとの出会いがあった。

自分にとってこれ以上に価値のあることはなかった。

・・・

当時はメルカリが軌道に乗るかどうかの瀬戸際だったこともあり、
コンサル終了に伴いamazonからは一旦離れることにした。


2021年7月


メルカリ10垢中9垢がBAN。

メルカリに没頭しすぎてamazonで商品を増やすことを怠っていた自分は、
またほぼ収入なしの状態に戻った。

待望の娘が生まれて、まだ2ヶ月の出来事だった。

この時に感じたことは以下のポストに書き綴っている。

皮肉にも、ほとんど誰にも見られていないと思っていたXに
これほどイイねがついたのは初めてだった。

実はこの時、まだこのタイミングではXに書けないことがあった。

妻とのこと。

それを同年11月にやっと吐き出すことができた。

妻に諦められたことだった。

7月にメルカリ全垢BANをくらったことは妻にも報告した。
その時初めて、

「もう就職して」

と懇願された。

たぶん、

「もういい加減にして」

という意味だったんだと思う。

思考が停止した。

妻が先に諦めるという想定はしていなかった。
それくらい、どんな時でも自分を信じて応援してくれる人だった。

会社を辞めると言った時も
動画編集のフリーランスになると言った時も
今度は中国輸入をやると言った時も

反対なんて1度もされたことがなかった。
嫌な顔一つされたこともなかった。

でも本当は不安だったのかもしれない。

子供ができたことで、妻も心にも余白がなくなってきていた
ということにこの時初めて気づいた。

自分はまだまだやれるつもりだった。

本当の悲劇とは、
何かに挑戦して失敗することではない。
夢や理想を諦めることでもない。

本当の悲劇とは、
今まで自分を信じて応援してくれていた人に、諦められることだった。

専業なのに大した結果も出せていない自分を直視しないように、
減っていくばかりの銀行口座の数字も見て見ぬふりをしながら、
なんとか前を向こうと頑張ってきたつもりだったけど、
この時初めて緊張の糸が切れ、うつむいたまま頭が上がらなくなった。

一体何をやってるんだ自分は。

自分のあまりの情けなさに涙が止まらなくなり、
しばらく動けなくなった。

会社を辞めて、すでに1年半が経過していた。

・・・

就職するにしても物販を辞めるにしても、目の前には在庫があるわけで。

この在庫を処分するまでは辞めるに辞められない。
何より、自分の中でメルカリ攻略の糸口が何本か見えていた。

その糸口を掴むまでは辞めたくないと思った。
確かめたいこと、試してみたいことが頭の中にいくつもあった。

むしろ今までのやり方では、いつかBANされることは分かっていた。

対策をしなかったのは怠慢でしかないけど、
誰かの手法を真似をするのではなく、完全に自分のロジックを組み立てて、
1つ1つ検証していくことを決めた。

それでも上手くいかなければもう就職するのみ。

不退転の決意で1からメルカリと向き合うことにした。

具体的には、高単価商品を相場よりさらに高い値段で売るための手法を
組み立てていった。

そこからはまさに修羅。

朝4時に起きて夜遅くまでメルカリと向き合いひたすら検証を続けた。

・アカウント数
・レビュー数
・1日の出品数
・出品タイミング
・100円値下げのタイミング
・利益を増やしやすいジャンル
・ハッシュタグの使い方
・プロフィールの書き方
・説明文の書き方
・回遊動線
などなど、検証に検証を重ねた。

同時にXでも狂ったようにポストを続けた。

あまり思い出したくない精神状態の頃。狂ったようにXに自分の頭の中を書き続けた。

何から何まで投稿していった。

当時はキラキラ系と呼ばれるメルカリ発信者の全盛期。

それらの発信者とは明らかに一線を画す異質なアカウントになっていった。

この頃から少しずつ他の中国輸入プレーヤーにも認識されていった。

上っ面のキラキラ系メルカリ発信者ではなく、
どう見ても人生を賭けてメルカリをしているヤツがいる。

イイねが10を超えることも増えてきたのがこの時期だった。

DMやコメントも入るようになった。
質問も飛んでくるようになった。
答えると既読スルーなんてのは当たり前だった。

全てがどうでもよかった。

生まれたばかりの娘のおむつ代のためなら全てが些細なことだった。

X上での雑念、雑音を振り払うかのように毎日18時間以上は
ひたすらメルカリとにらめっこする日々を送った。

幸いなことに、当時は妻子とは別居していた。

妻は台湾人なので、出産前後は台湾で生活をしていた。
自分も出産には立ち会ったけど、間もなく日本に帰国していた。

この頃まだ妻子は日本に帰国していなかった。
そのおかげもあって自分は1日中、物販に集中することができた。

実家に居候させてもらっているから家賃も生活費もかからなかった。
物置も倉庫として使わせてもらえた。

生活にかかる費用、物販にかかる固定費がほぼ0の状態で
中国輸入を進めることができた。

そのおかげで、利益は全て仕入れに回すことができた。

この期間があったからこそ、物販を収入の柱に育てる基盤ができていった。

両親にはいくら感謝してもしきれない。

もしまだ東京で家賃や生活費を払いながらだったら。
自分は物販で食えるようにはなっていなかったかもしれない。

・・・

この時にヤフショにも出店。

・メルカリほぼ全垢BAN
・妻に諦められメンタル崩壊
・1からロジック組み立て
・商品も新ロジック用に再リサーチ、仕入れ、出品
・ヤフショ出店、出品

今思えばとんでもない月だった。
2021年7月が今までの物販人生で、1番暗く深いどん底となった月だった。


2021年8月


メルカリは空輸だから展開が早い。

2021年8月に月利60万円を達成。
月商は130万円ほど。

自分独自で作り上げたロジックが当たりまくり、
初めて長く暗いトンネルから抜け出したような感覚があった。

しかもこの時点でまだまだ自分の中では伸びしろがあった。

結局その後も伸びて最終的にメルカリは月商150万円、手残り70万円まで
伸ばすことになった。

会社を辞めて1年7ヶ月、失敗しかしてこなかった自分にとって、
初めて掴んだ、明確な成功体験だった。

・・・

ヤフショも同時進行。
この頃はまだメルカリの商品を横展開しているだけ。

商品数の割にはほとんど売れていないようなものだけど、
新しい販路の開拓には心躍るものがあった。

これで販路はamazon、メルカリ、ヤフショの3販路になった。


2021年9月


当時のヤフショは日曜日というだけで爆売れする販路だった。

日曜日だからといって広告費をあげたり画像を変えたり
価格を調整したりなど何もしなくても勝手に爆売れしてくれた。

日曜日に5のつく日が被る場合なんてお祭り騒ぎだった。

本当に何もしてないのに・・・!

一方でamazonは一気にリリースした5商品が大失敗した様子をXで公開。

いま思い出した。

失敗した商品はamazonで売り捌いたのではなく
メルカリで売り捌いたのだった。

この頃はメルカリで自分の手法が確立されていたため、
しっかり利益も取っての資金回収。

とは言えメルカリで販売する想定でamazonでリリースしたわけではないので、amazonでの失敗体験は色濃く記憶に残ることになった。

しかもamazonで販売を開始してから1年以上たっての回収ということは、
それまで資金がロックされていたということ。

物販事業を営む人間としては、
まだいろんな判断が未熟で後手後手の状態。


2021年10月



当時、融資は公庫からのみ受けている状況。
規模の拡大を目指し、地銀とも取引を開始。

まとまった資金ができたことで、
ヤフショはメルカリで販売している商品の横展開ではなく、
ヤフショ用で販売する商品のリサーチを開始することになる。

2021年11月


YFF利用開始。

自己発送に辟易としていた自分はロジを活用する方向に活路を見出した。

当時はYFFを使うだけでSEOが(異常に)優遇される時代だった。
これを機に一気にヤフショが伸び始める。

この頃からヤフショの発信も積極的にするようになっていった。


ちなみに上記ポストの「月商10万円の商品を30SKU」以外の部分は
後に全て宣言通りとなる。

一方で、メルカリに対する執着が急速に小さくなっていったのもこの時期。

あれほど血眼になって作り上げたメルカリの手法と収益を、
全部捨てようかと考え始めていた。

理由は2つ。

1はヤフショが順調に立ち上がり始めたこと。

2はメルカリで収益を上げるための構造そのものに疑問を感じていたこと。

メルカリで上手くいくために必要なことを一言で言うと
「如何に垢BANしない運用をするか」に尽きる。

一昔前までは垢BANしても次々と新しいアカウントを作ればいい!
みたいな風潮もあったけど、もうそういう時代でもなかった。

何よりそういうイタチごっこに自分は価値を感じなかった。

運営側にツールを使っていないように見せかけ、
垢BANしないために日々様々な工夫を凝らす。

でも、もうこの「垢BAN」云々のことを考えるのが億劫になってきていた。

垢BANがどうのこうのは物販の本質からはあまりにもかけ離れている。
手法そのものもメルカリでしか通用しない要素が多すぎると思った。

何より、1年後も続けられているか確証が持てなかった。
続けられていたとしても、自分の物販プレーヤーとしての実力が
上がるとは思えなかった。

続けられるかわからないことを続けてもしょうがない。
それなら持てるリソースを全てヤフショとamazonに突っ込むべきでは。

そんな葛藤と戦い続けていた。


2021年12月



日次だけどこの頃からヤフショの収益がメルカリを超える日が出てきた。

当時はまだメルカリで販売している商品の画像を
デザイナーにブラッシュアップしてもらって販売している状態。

それだけでも売れるようになってきていた。

このころ全販路の月商合計は200万円ほど。

ヤフショ用にリサーチした記念すべき1商品目。

結論、失敗。

いまならまず選ばない商品だった。

2商品目にしてまさかの仕入れ単価100元超え商品。

大きすぎてコンテナを使わないと利益が出ないことが判明し、
結論、これも失敗。

怒涛のスピードで3商品目を販売。

これは何の商品か覚えていないけど、恐らく最終的には失敗。


まだまだ続くヤフショ用4商品目リリース。

これも何の商品か覚えていないけど、ハイペースで商品を出品していった。

amazonのコンサルを受けてから1年半、卒業してから6ヶ月。
6商品目にしてamazonで悲願のヒット商品が誕生。

後にこの商品は月商100万円を突破。
7商品目は6商品目の類似品を出すことで同じくヒットとなった。

この商品のリリースにあたり、今まで学んできたことを全て横に置いて、
1から自分なりにロジックを組み立てていった。

特にコンサルに教わった

・ニッチ市場から入りましょう
・OEMをしましょう

これはやめた。

今まで上手くいかなかったんだから、
アプローチを変える必要があると思った。

その上で、

・今まではリサーチしてこなかった大きな市場
・特定の人が使う商品ではなく誰でも使う可能性がある商品
・商品開発を伴うOEMではなく簡易OEMに変更
・受け取った時に「自分が」感動する品質か
・面倒くさいことをする

この5つは強く意識した。

まだリリース基準としては甘いけど、この商品が当たったことにより、
amazonでの市場選定、商品選定の仮説がいくつか頭に浮かび上がった。

この時に組み立てた基準が、後にヤフショ、楽天でも市場分析と商品選定の土台となっていった。

・・・

2021年はこれで幕を閉じた。

自分が専業の物販プレーヤーとして生きるか死ぬか。
その節目となったのが2021年だった。

結果、生き残った。


2022年1月


2022年、この年に自分は専業の中国輸入プレーヤーとして
ハッキリと地に足がついた年となった。

まずメルカリは完全撤退。

2020年からジェットコースターのような人生の中心にあったメルカリを
捨てた。

未練は全くなかった。

同時にメルカリに関する発信もやめた。
モールで生きていくという覚悟が固まっていた。

この決断が、これまでの物販人生で1番自分を大きく成長させることになる。

今までメルカリにかかっていた膨大なリソースの全てを、
ヤフショ、amazon、1688のリサーチ・分析にあてることができるようになった。

・・・

メルカリを捨てたことで、またまともな生活費がない状態に戻った。

ただこの時は、以前のような悲壮感はなかった。

どう見てもメルカリより簡単に、楽に、しかも大きく結果を伸ばせる販路が
目の前にあった。

それがヤフショだった。


2022年6月


ヤフショの日商が10万円を超えるようになってきた。


このあたりからヤフショの新商品で失敗することがなくなってきた。

2年間、毎日のようにamazonセラーを見続けてきた自分にとって、
ヤフショセラーの実力はあまりにもお粗末に見えた。

「弱いのに売れてるセラー」

これが自分のベンチマーク基準の土台となっていった。

あぐらをかいているセラーたちを狙い撃ちにし、
次々と売上を奪っていった。


2022年7月


この頃からamazonもかなり安定感がでてきた。

当時は新商品の初回発注分は自分で検品するという
自分ルールを設けてやっていた。
これがすごく大変だった。
*今は検品を自分ですることはなくなった。

物量的にはまだまだだけど、
将来はコンテナを使うことを視野に入れ始めた。

この1年後には実際にコンテナ運用が実現することになる。

2022年7月頃から月商が300万円〜400万円ほどの規模になってきた。

不安に襲われたり生活費に困るようなこともなくなってきた。
夜中に走ることもなくなった。

Xでの発信も手を緩めなかった。
インプットとアウトプットを毎日高速で繰り返していった。
結果、フォロワーも毎月100人ペースで増えていった。

・・・

このあたりから、人生そのものがゆっくりと上向いていくような、
確かな変化を感じていた。


2022年8月


ヤフショ単体で月商300万円を達成。
amazonも合わせると月商が450万円前後まで伸びるようになった。

ヤフショ攻略のために立てた仮説が当たりまくり、快進撃が続いた。

このポストをきっかけにフォロワーが爆増し、
メルカリからヤフショへの進出を目指す人の多さに驚いた。
*メルカリ→ヤフショへの進出の順番が最適であることは今も変わっていない

脅威のペースでヤフショの発信をしまくる。毎日ものすごい勢いでフォロワーが増えていった。



2022年9月


ヤフショのPRオプションを一律1%運用から、
全商品の市場を細かく分析し、それぞれの%を設定する運用に切り替え。

これがまた功を奏した。

瞬間風速ではあるけれどヤフショの日商が90万円を超える。

そしてこの月に初めてヤフショ& amazonの月商500万円を達成。

メルカリを捨てると決めてから、9ヶ月後の出来事だった。

・・・

中国輸入は軌道にさえ乗ればあとは自分の意志とは関係なく売れていく。

自分の場合は2年かかったし、しなくていい失敗もたくさんしてきた。

これ以降は売上も極端に下がることなく、これといった事故もなく、
淡々と売上利益を積み上げるフェーズに入る。


2022年10月


パーソナルジムに通う余裕も出てきた。

ちなみに2024年8月現在も継続中。
ベンチプレスは25kgが限界だったのが今はMAX105kg挙がるようになった。
物販もボディメイクも継続は力なり。

・・・

同月に念願だった楽天への出店審査に通過。
これが自分の物販事業者としての基盤を決定づける出来事となった。

同時に、この頃からXでの月商報告的なポストをやめることにした。

もう初心者層からすると数字的に現実からかけ離れてきていたし、
もっと上の猛者たちからするとショボい事業者に見えそうな、
絶妙な規模感になってきていた。

自分の事業規模をネットで公開することに意味はなくなってきていたし、
そこに対する興味も熱意も失っていた。

逆にネットで公開することのリスクの方が大きくなると判断した。

月商200万円~300万の頃が1番活き活きと投稿できていたように思う。

軌道に乗るかどうか。
あと少しで頭1つ抜けるかどうか。

そういうギリギリの状態の人のポストの方が面白いし、
見ていて応援したくなるもの。

自分はもう応援していただくようなアカウントではなくなってきていることを、薄々感じるようになっていた。

下手すると嫌味っぽく受け取る人もいるかもしれない。
自分の投稿を見て凹んでしまう人もいるかもしれない。

自分がそうだった。

他人の実績報告を目にするのがすごく嫌だった。
特にメルカリ全盛期はみんながこぞって

今日の発送は◯◯◯件!
売上はいくら!
利益はいくら!

という報告ポストをしていた。
みんなすごかった。

Xを開くとどうしても目に入ってしまうすごい人たちの報告に
ふがいない結果しか残せていなかった自分は毎回のように打ちひしがれた。
*この頃の名残で、今もXのタイムラインを見ることはなくなった。

少なくとも自分はすごい人たちの実績報告を見て
奮い立つようなタイプではなかった。

そう思うと、いまの自分が数字を公開することにもう何の意味もなかった。
むしろデメリットの方が大きいと思った。

結果、Xでの数字報告はやめていくことにした。


2022年11月


楽天への出店は自分の中では最終目標に据えていた。
メイン販路はamazonでもヤフショでもなく楽天だと決めていたから。

というのも、自分が物販を続けていくには専門店化が必須だと捉えていた。

専門店化した方がメリットが多いとかそういうことではなく、
やりがいを見つける必要があった。

自分は好きで物販を始めたわけではなく、
家族を養うために必要にかられたのが出発点だった。

中国輸入を始めて2年がたっても、
売上に困らなくなっても、
資金に少し余裕ができても、
1度も「楽しい」と思うことはなかった。

全ては生きていくためだった。

でも、このままだと続かないと思った。

楽しいと思う瞬間がないことなんて、
人は続けることはできない。

自分は過去に、収入を捨ててまで会社を辞めた。
後ろ盾や保証がない状態でも辞めてしまった。

全く楽しくなかったから。

2年かけてなんとか物販で食っていけるようになったけれど、
一様にして「楽しい」と思うことはなかった。

これではまたいつか限界が来て辞めてしまう。

そうならないために、
物販でやりがいを見つけるためにどうすれば良いか。

自分なりに導き出した答えが専門店化だった。

お店として統一感を出す。
特定のお客様だけを相手にする。
お客様に覚えられる店舗を作る。
商品ラインナップに関連性を持たせる。
商品単体の勝負ではなく店舗全体としての運営力・総合力をつける。

その販路として最も相応しく、専門店化が最大限に活かせるのが
楽天だと捉えていた。

楽天×専門店化

これが自分の物販事業における最終形態だと捉えていた。
*この方針は2024年8月現在も進行中。

・・・

楽天への出店が決まったことによる
自分の生涯にもたらされる利益額を想像すると心が躍った。

ただし上手く軌道に乗せることができればの話。

商品単体での勝負というよりネットショップとしての運営が求められる楽天はamazon、ヤフショの攻め方とは明らかに違った。
正に「異質」という言葉がピッタリだった。

今までやってきたamazon、メルカリ、ヤフショでのやり方は
ほとんど通用しないように見えた。

専門店化してやりがいを得たいと言っても、
自分には特にやりたいジャンルがあるわけでもなかった。

0スタート。
また何もないところからロジックを組み立てる日々が始まった。

2年間、死ぬ気で物販をやってきた自分にどこまで応用力があるのか、
試されているような気がした。


2022年12月


自社倉庫の運用を検討し始める。

このころになると資金的にもかなり余裕ができはじめる。

資金をどこに投入するか。
仕入れ・新商品出品・場所・人など。
いくつか選択肢が目の前にある状態になっていた。

コンテナ運用をしたいと考えていた自分は、
まず「場所」に焦点を当てた。

・・・

来月の生活費に頭を抱えていた自分にとって、
選択肢が目の前にある状況そのものに、静かに感動した。

真っ暗闇のどん底にいた2021年7月から、1年半が経っていた。



2023年1月



2023年1発目の挑戦。
事務所兼倉庫を借りた。

1年の定期借家契約ということで
110平米の事務所を格安で借りることができた。

1階にはコンテナをつけられる設備があり、
ビル常駐の物流会社が事務所まで運搬してくれるという
この上ない条件の物件だった。

逆説的ではあるけれど、この物件を借りたことで
自分がこの先どういう物販経営をしていきたいのかが定まることになった。

場所・人を極限まで減らした1人社長としての
身軽で効率的な経営を目指すようになる。

とはいえそれはまだもう少し先のお話。

当時はまだ固定費を増やしてやるべきなのか半信半疑で、
どちらかといえばそれを確かめたいという心境だった。

2023年は、この事務所兼倉庫を中心に物販を進めることになる。


2023年2月


さっそくコンテナ運用を開始。

それまでわからなかったことが一気に明確になり始めた。

・コンテナを使うことでどれほどコストダウンになるのか
・利益率はどれほど上がるのか
・コンテナ運用を平常化させるとするとキャシュフローはどうなるのか
・発注サイクルは今までとどう変わるのか
・コンテナで輸送するためにはどれほどの物量を発注すれば最もコスパが良くなるか

などなど。


まだまだXに記録しまくる日々は終わりそうになかった



2023年3月



当時はまだどう考えても2ヶ月連続でコンテナで仕入れるほどの規模では
なかったが、色々と試行錯誤と検証を繰り返していた頃。

コンテナに段ボールが詰まっていないことから、2本目というよりは、
初めての1本目の発注でどれほどの物量を発注して良いのかわからず、
発注のしすぎによって1本目に入りきれなかった分と思われる。


2023年6月


自社倉庫を借りてはや半年。
この時すでにこの運用方法は長く続けれられないと感じていた。

というのも、当時はFBA、YFF、RSL全て別で納品をしていた(!)

コンテナを使うことで仕入れ値は大幅に下がったにも関わらず、
売上に繋がらない自分の作業時間が膨大に増えた。

しかも販路によって違う商品を扱っていたことから、
とにかく在庫管理、発注ルールの組み立てが煩雑を極めた。

普通の船便を使っている時は気にする必要はなかったけど、
コンテナとなるとかなりの数量をまとめて発注する必要がある。

在庫切れ、過剰在庫は常に隣り合わせとなり、
コンテナ運用のハンドリングの難しさに四苦八苦した。

1年契約も逆に仇となった。

解約することが決まっている場所に人を雇うわけにもいかず、
全て自分で納品作業をするしかなかった。

1日中ずっと納品作業で終わる日もあった。

メルカリで自己発送していた時代が可愛く思えるくらい、
もう自分で納品作業をするような物量ではなくなっていた。

体がボロボロになり、特に腰痛に悩まされた。
生まれて初めての整体に通いながら、日々段ボールと向かい合った。

娘が保育園に通い始めたタイミングで妻が納品作業を手伝ってくれるようになり、ようやく売上に繋がるリサーチなどの業務に手をつけ始めることができた。

と、同時にこれからの運用方法について考えた。

半年後に賃貸契約が切れることは決まっている。
その後、別の倉庫を探して人を入れて今のやり方を続けるか?

答えはNOだった。

納品作業のために人を入れるということは、
自分にとってメルカリの発送のために人と入れることと同義だった。

売上に繋がらない業務のために固定費をかけて場所を用意して
人を増やすことに自分は1度もセンスを感じたことがなかった。

しかもどう考えても1人では回せる物量ではない。
入れるなら2〜3人は同時に入れないと機能しないことは目に見えていた。

それだけの人を入れるなら全員売上に繋がる仕事に当てたい。

"売上に繋がらない業務は最低人数の最低賃金で、
こちらが固定費をかけて場所を用意するのではなく、
その人の自宅でできることをやっていただく。"

"場所が必要な業務は自社で人を育てるのではなく業者に委託する。
それで上手くいくための仕組み(利益が出る仕組み)を作る。"

"ツールで解決できることはツールで解決する。"

"将来社員を雇用するとしたら売上に繋がる業務だけをやっていただき、
売上に繋がらない業務はその社員の下にアシスタントとしてつける。"

これらが、自社倉庫の運用をして初めて明確になった自分の価値観だった。


・・・

体はボロボロだけど、
昔のようにメンタルがボロボロになることはなかった。

毎日のように自分が進むべき道がハッキリと見えていくことに、
どこか安心感のようなものを感じていた。

もう光が見えない真っ暗なトンネルを走っているような感覚はなかった。


2023年9月


納品作業を妻が手伝ってくれるようになり、
自分の時間が増えたことでさらに売上利益は伸びていった。


法人設立。

会社を辞めて、3年と8ヶ月後のことだった。

・・・

同月にXをアプリを削除した。

理由はXが嫌になったから。

というのは冗談で、経営コンサルに師事することに決めた。
物販コンサルではなく、仕組み化や組織化を学ぶところだった。

今の自分にとって物販コンサルよりそっちの方が必要だった。

Xを消したのは、「まず全てのSNSからログアウトして時間を増やせ」
というのがカリキュラムの最初のミッションだったから。

ログアウトするならいっそのこと消してしまおう。

Xに何の未練もない自分はあっさりアプリごと削除し、
約3年もの間、毎日続けた発信をやめた。


2023年12月


コンサル修了と同時にX復活。


また怒涛の発信活動がスタート

1度消したXアプリを再インストールしてまで発信を始めるということは、
自分は本当に発信が好きなんだと思った。

いつかコンサルもしてみたい。
今の自分なら多少なりとも他の物販プレーヤーの役に立てるのでは、
と思うようになったのもこの時期からだった。


2024年


2024年についてはほぼ現在進行系で生々しいので、
また数年後、思い立った時に追記しようと思います。

その前に、そもそもこういう記事に需要があるのかわかっていません。
なので、もしXで感想などお書きいただけましたらとても嬉しい次第です。

・・・

どこの馬の骨だかわからない無名の物販経営者の軌跡を
ここまで読んでくださったあなたに伝えたいことは1つだけです。



何があっても、絶対に諦めるな。


                    2024年8月18日(日) コサット


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