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くじゃくのはだか

二〇一七年八月二十六日土曜日

晴れ (とおり雨があったようだ)

月に一度、わたしが役割からはなれて個人のわたしになるrelight committeeの日。

裸の女性をモデルに、粘土でえがくヌードデッサンを行なった。情報を明かされないままの三十分、その方の自己紹介等を聞いてからと二回実施された。

一回目:裸には情報が少ないということを思ったり、彼女の気持ちをイメージしたり、つかみどころを見つけられなくてぼうっと見つめた。どうしてだか全体を表そうと思えなくて(あれはどうしてだろう)肌の質感と違和感を覚えた華奢な手をつくった。
二回目:裸には情報があったと思う。裸だけの彼女と、目に見えない情報も含めての彼女には差があった。さっきまで恍惚と放っていたようにみえた光はみえなくなった。彼女の目をみることがようやくできて、じっと見つめる。 (どうして見つめられるようになったのだろう)ひとに線をひいているのかもしれない。
※追記
動物からみたにんげん (の裸)は、うつくしいのか、にんげんってうつくしいのか。

芸術作品としてのヌード写真と、そうではないヌード写真から感じるこの違いはどういうことなんだろう。
ということをある時期ぼんやり考えていたことを思い出した。


わたしの弱さや無さを実感する機会にもなったように思う。デッサンをしながら、もっとこのように学びを深めたいなあと。現代アート・パフォーマンスアートと社会、歴史というものを大まかに紹介してもらうが恥ずかしくなるほどに知らないことばかりだった。どこかを切り口に学びたいな学ぼうと。それがすぐにどうなるのかわからないけれど、稼ぐ方法はまた別に考えなくてはいけないけれど、こういったところにいたいのだなあと正直なきもちがそこにあった。

銭湯は開け放たれていて開放的で、気さくに話しかけてもらったりとsmall talkが生まれる心地のよい空間。なぜこんなにいいところが今こんなに少ないのだろう。こういった会話の生まれる場はとても心がわくわくするのだなとも思う。

生きる意欲がぐぐんと湧いている帰り道。

そういえば、日記を読んでくれたひとりの方が、日記の感想を「映画みたい」と「ひとつのプロジェクトみたい」と話してくれたのはとても印象的でうれしかったなあ。

夕ごはんは、蒸したとうもろこし、きのうのお刺身、野菜炒め、たらこスパゲッティ。

行きと帰りの移動時間と夕ごはんの後をつかって、一週間ためにためた日記を書く。宇多田ヒカルさんのアルバムと小袋成彬さんのラジオをリピートしながら。彼の声と選曲と心地よい。過去の番組も遡れたらいい。帽さんは、近所のお酒の席に誘われてたかくんと出かけた。生きているうちの二、三年だから貴重な時間だなと思いつつ、授乳が終わったらわたしもお酒の席にひょっこりできるのかと思うと卒乳の日よ、こいこいと思う。

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