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かざあなふうー

二〇一七年十一月十八日土曜日

relight committeeの日は、雨の予報。「のんさんと公園で遊びたかったのに」と帽さんは呟いた。帽さんがのんさんとふたりで過ごす日、公園があるというのは安心のひとつなのだと思うけれど、毎回どうしてか雨。なにかの課題なのかしらと思うくらいに。

のんさんが手をふって見送ってくれて家を出発。普段ラジオばかりの日常(音楽を聞こうとなぜだかなりにくい)、なにか音楽を聞こうと三つしか入っていないアルバムをかけてみる。三つ目、UA「golden green」がこれだと心地よく、流しつづけた。ちょうど繋いでくれる絶妙なバランスだった。日常と非日常、自然と文化。


平日から日常から、じぶんの歩く速度でなくバスと電車に乗って教室へ向かう。 きもちやいろんなことがその速度では追いつかないところへ、映像のinputがどばどば注がれる。受けとりきれなかったと思う。感想を話すひとたちの速度に驚いたりしながらぱやぱやした。

映画はあまり得意ではない。わたしの日々の物語に、いつ違うひとの物語を入れたらいいのかじぶんでは観るタイミングがわからない。誰かに連れていってもらったりしない限り観ることはない。けれどもどんなメディアでもひとの話をききたいという欲求があって、だからインタビューをきく・よむ・みることはとてもよくする。むさぼるように。

二宮圭一さんがはじめに「昔よりずっとせかいはよくなっている」というようなことを放ち、ぐわっと揺らいだ。風穴が空いた。このひとがアートだなあと思った。じぶんもゆけるかも、ゆきたい、と思えるような、そういった意味でのひかりとなんでもいいよーと包んでしまう大雑把な寛容さというのか、そういったことをアートに感じる。そんなおばちゃんみたいなアートとともにありたい。

朝、末広町のファミリーマートでカフェラテとクッキーを買った。レジではたらくおじちゃんは「こぼはないように気をつけて」「フタが向こうにありますよ」ことばのおしまいに柔らかなほほえみがあって、こどもに向けて話すようで田舎時間が流れた。エイリアン 違和感 さいこう 異物であれーーーー とそんなことを思った。このひともわたしには同じ、アートのもつひかりのようだ。

晩ごはんは、すき焼き、ごはん。

・・・

追記

action、これまで思ってきたことを話してみて、帰り道”なんでもいい”とあたまのなかでつぶやくじぶんがいた。そのなんでもいいはなんでもよくなくて、じぶんがきもちよくやりたいことならばというのが付く。話してみて、なんだろう、ちょっとうるさいなというか。二宮さんやコンビニのおじさんに会ってしまったから、そうだけれどそうじゃないなあと思ってしまった。どうしたいんだろうというところを軽やかに思い浮かべてみようかなと思った。それは話したことと変わらないことになるのかもしれないけれど、表れ方としてもっとあるはずだな、と。

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