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デロールとダーウィン

二〇一八年二月十八日日曜日

くもり

counter voidへの視察と検証に付き合ってもらう。

けやき坂は風がつよく吹く。

のんさんは「あかちゃんのほう いく」と わたしが吹いているあいだに 坂をのぼっていってしまい帽さんはあわてて追いかけた。そのあかちゃんとは。


以下は吹いたことで思ったことなどを宏子さんたちに伝えたメモを貼る。

六本木でしゃぼん玉が飛んでいること、吹いていることはもっと違和感を生むものと想像していましたが、ただ吹いているだけではおおきな違和感は生まれないことがわかりました。わたしが定義しているやすむには、手をとめる、足をとめるくらいのちいさなとまるという程度のものもやすむと考えています。わたしがひとりで吹いているだけでは足をとめるようなことはなく、目で追うひと・坂を下ってくるひとがすこし驚くというくらいでした。宏子さんが話してくださったように、ひとつひとつにこだわりしっかり考えるひつようがあることもとても感じました。

(counter voidは消灯されていてもパワーがありますね。しずかにこみあげるものがありました。)
この作品が点灯されたときに、このあたりで吹くのはそれはちがうとcounter voidの前で吹きながら感じました。ここで吹くにはあまりに根拠がない、と。counter voidのあたりで専有することはしないと思っています。もし吹くとしても歩きながら、手持ちで配布するかたちを思っています。まずはそれをお伝えしなくてはとメッセージです。

○内容について

1.宏子さんが送ってくださったように
ひとつひとつ徹底的にこだわり 吹くということを行う

または
もしくはプラスで

2.ちいさなやすむのきっかけとして、実際に吹いてみてもらえるように、配布する

実際にその場で行なってすぐは、ただ吹くではちがうということを思い(配布数はかんがえなくてはいけませんが)多くのしゃぼん玉を配布するということを考えました。2を中心に行う、ということです。タグにはいつ吹いてくださいということと、深く吸って吐くというようなすこしでも手をとめたりやすむとなるような言葉を記載し、同時間にあらゆるところで吹いてもらう、ということをかんがえていました。配布方法としてはわたしが手渡すほかに考えに賛同してもらったお店に置いてもらうなどもできたらいいのかな、などと。でも決めきれていないという状態です。

○ばしょについて

あきおさんが話されていた (心地よい状況を獲得するために)現状が心地よくないからうごくというのを聞いたときにそもそもどうして"やすむ"を渡すひつようがあるのか、というところを思い出して

時間が刻まれて使われているきっちりとせかせかとした主に東京の風潮に居心地のわるさを感じていて、ミヒャエル・エンデ『モモ』に描かれたあの世界のようになっているなあと、「はいいろ」に時間を奪われているような気がしています。この居心地のわるさを、居心地のよい方へひっぱりたいという思いがあっての"やすむ"を渡そう、それならわたしにできることかもしれないと思ったのでした。モモになろう、と。

となるとどこで吹くのがよいか、と考えています。

○いつ吹くかについて

伝えかたがむずかしいのですが

3月11日と設定したのは、

この地震はそれはもちろん起きてほしくなかったことであるのは大前提なのですが、この地震のあと裂け目というのか、あたりまえをかんがえるために立ち止まる隙間のようなものが生まれたように思いました。いまも、この日はそのような立ち止まる隙間を与えてくれているというのか、先ほどのモモの「はいいろ」から正気になる間のようなものがある日でもあるのかなと思っています。ちょうどその「はいいろ」から正気になる間のある日に、ひとがひととしてかんがえるために必要な時間・やすむのきっかけとしてしゃぼん玉をと考えていました。

宏子さんが書かれていた
・なぜしゃぼん玉なのか
・すうじ
・場所
・装い
などまだまだひとつひとつかんがえなくてはいけなくて、決められていないことが多い状況ですが、そしてとても長くなってしまいましたが共有です。


晩ごはんは、母が函館から送ってくれた海の幸をいただく。ほっけとホタテとしいたけ(七輪で焼く)、ほたてといかのお刺身、お味噌汁、いかとうにといくらの小どんぶり。


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