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サイと自転車

二〇一八年二月二十五日日曜日

はれ

帽さんが昨年くらいから家系図を書きはじめた。書いていくなかで家系図を書いていく重要さをかんじるのは書き足されていくなまえのひとりひとりの持つエピソードや物語を知ることができること。だから誰かからの口承によって家系図は出来上がっていくところが大切なのかもしれないなあなんて思う。

いま、80代くらいの祖母の世代に訊いておかなくては、なまえもエピソードも出会うことができなくなってしまう。キーとなる方のひとり、帽さんママのお父さんの弟、西さんが立川に住んでいるとのことで、帽さんママパパも長野からやってきて、お話をうかがう日になった。

帽さんや帽さんママがいうには、帽さんママのおとうさんに話し方や声がそっくりなのだそうだ。亡くなったおとうさんに会えたようでうれしかったと話していたけれど、たまらないのだろうなあ、想像しきれないけれど、そう思う。

わたしはのんさんと駐車場散歩などしながらだったので、帰り道のくるまのなかで、ばくばくしている帽さんから訊く。

東京大空襲の園のなかの景色を知っていて生きているそのひとりが西さんであるということ。1本の映画を観たみたいだ、と帽さんは話していた。常に逃げられるように、外出する服のまま眠っていたこと。警報があり、次の日の朝ごはんは置いて出ると東西南北 火で囲まれていたのだそうだ。川に逃げていくひとびと。火によっての上昇気流が生まれて熱風が吹く。溺れるひと。どこにいても生きられるのかわからないなかで見つけた鉄工所。ここならだいじょうぶかもしれないと逃げこみ、眠ったそうだ。朝起きると、生きていた。生きていた。周りはなんにもなくなっていて、きっと亡くなっているひとをたくさん見たのだろう。家に帰ると焼けてなくなっていて、釜のなかにあった米はたぶん炊けていて、だれかが食べてしまったんだろうと話していた。


お話を終えて、我らは銀座へどぴゅん。のんさんは高速に乗る前に眠り、銀座にいるあいだ眠りつづけて、起きたのは家の近くで高速を降りたころだった。きっと彼女はあのデニーズからの帰り道かなと思っていたと思う。

晩ごはんは、水炊き鍋だったと思う。

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