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春の電話

二〇一七年二月二十三日木曜日

雨のち曇り

待ち合わせに向かいながら、冬と春のくうきが入り混じる気持ちよさに後押ししてもらい、今しかかけられなさそうと思いながら電話をかける。 (外でかけられる携帯電話のありがたさってこういうことか)
「こんにちは」もしもしではなくてこんにちはと先生は出てくれた。びくびくと、どきどきとしていたけれど、ああこの声だったとうれしいに溶けてゆく。会わないあいだに記憶は、あの声に靄をかけてぼんやりとさせていたことがわかった。生きている。伝えられる思いついた言葉をたたらった話して、それはとても拙く、あとからもっと話すことあったんじゃないかと思うようなものだったけれど。電話を切って、「風が吹いた」と言った。ほんとうに風が吹いたと思う。目の奥がじんとした。

それはのんさんがボタンを押してかかってしまったあやまりによって聞くことができた声。アクシデントに感謝。のんさんに感謝。

わたしは生きてきたんだなあ。ぴゅっとここにいるわけではなくて、時間をかけてここまで歩いてきたんだなあと思った。


あのことごはん。あそこにもここにも春が来ている。なんというか季節もだけれど、二〇一七年は春。晴れているのも、風がつよいのも、追い風もはんたいも、南と北の風が混ざっているのも、あたたかい雨も、花曇りも、それはいろいろなかたちで、もちろん日にもよるのだけれど、おおきくは春だなあと。会うひととの会話のなかで思う。わが家もやっぱり春だもんなあ。春。

夜ごはんは、タコス(手作りサルサソース、ひき肉、レタス、チーズ、アボカド)、蓮根のナンプラー焼き。

帽さんとここ最近ずっと話題の、まさに春の話をする。正直に生きたい、こう過ごしたいを口に出すとこうだった。それがあるならば、それでいいでないのか、と。ちいさな波とおおきな波をうまく捉えながら歩くことはできそうな気がする。おおきなポイントは遊びというか文化というかアートというところ。帽さんはなにかがひらきまくっているし、岡本太郎の本の影響もあるかもしれないけれど本質にゆきまくっている、このごろ。その状態が、その感動をぎゅっと受けとりアウトプットでき、巡る日々へと向かえたら。

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