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おなかのいたいりゆう

二〇一七年十一月十二日日曜日

晴れ

川の方へそんなに喋ることもなく自転車こいで散歩した覚えがある。そのときどんな匂いがしてどんな風景があったかは覚えていない。ただおじいちゃんと川へ行ったことは小学生のわたしにとって救いだったのだと思う。口数は多くなかったけれど口がわるいというか損をするものの言い方をしていた。わたしはどちらかというとおじいちゃんが好きだったけれど、みんなおばあちゃんの味方だなって思っていた。一度怒られたことが(たぶん)ある。そのとき怒られた、怒るんだ、怒ってくれるんだとなんだか思った。

いつも座っているソファーの横にはだいたい甘いものが置いてあってよく食べていた。左にある本棚には白い四角いラジオがあって巨人戦が流れている。テレビで巨人戦を見ながらラジオでも聞いている。今思うととてもふしぎな光景だけれどそれが日常だった。みかんを食べながらこたつに入ってなんとなしに相撲をいっしょに見たりした。自学という宿題で作文を書いたのも、洋服のデザインをノートに描いたのも、あの机だと思う。ピアニカで好きなうたの音を探したのはおじいちゃんの部屋だ。

わたしにとってはとてもくるしい期間でおじいちゃんやおばあちゃんに浸るよゆうがなかった。でも、幼少期と聞いて思い浮かぶのはおじいちゃんおばあちゃんの家の前で一輪車に乗りながら田んぼのうえの夕焼け空を眺めたあの風景だ。

おじいちゃんはたぶん生きようとしていた気がする。あんなに痛がったりしないおじいちゃんが「歯が痛い」ともらしたこと、お父さんが役割を変えることができなかったのか立つのがむずかしいおじいちゃんの腕をひっぱって立たせていたこと、散歩が好きだったおじいちゃんが足をわるくしてひとに頼ったりできない彼の性格とどちらかというと出不精な父の性格で眠るかたべるという生活になっていってしまったこと、おばあちゃんのお葬式で涙を拭いていたこと、でもごはんをとてもよく食べていたこと。いろんな歯がゆいがあって、まだ彼は生きられていたんじゃないかとか、そうでなくてももっといい風景を見られたんじゃないかと思ってしまった。でもなによりわたしは離れて暮らしてなにもしなかった。わたしが今度は散歩に連れて行けたらよかった。

晩ごはんは、お通夜の会場にてお寿司や煮物、てんぷらなど。

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