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さみしくてやさしいゆううつ

二〇一七年十二月九日土曜日

はれ

actionについて、思っていたことを書き出した。書き出すたびにこんなあたまでっかちな、そんなことじゃないような気がして釈然としない。

昨日としくんがシェアしていた椎名林檎さんの記事にあった言葉がひっかかる。

”私にとって、神様は八百万(やおよろず)ではなく、女の子なんです。”
”さっきまで「もう消えちゃいたい」と思っていた女の子が、「なんかお腹空いたな」とでも考え直してくれたら。”

じぶんにとってかみさまは。
どんなひとの心をどう動かしたいだろう。

ここな気がしてきた。いくこさんとメッセージのやりとりをしているなかで

ラブレターのような

という言葉。

もっと身近なもっと切実なactionにしたい。だれかひとり、たとえばのんさんもたのしめるとか、あさこさんがわらうとか、いくこさんに届けとか。語弊が生じるかもしれないけれど、なんでもいい。だからそのくらい切実に近くに持ってきてたったひとりのことを思い浮かべて、どうしたら笑ってもらえるかとかを考えて。そうしなくちゃなあと思う。

晩ごはんは、冷奴、青梗菜と厚揚げの炒めもの、カレーライス。

風呂から上がり着替えていると「わーーー」と帽さんが叫ぶ。帽さんが叫ぶのはよくあることだからそんなにびっくりしない。「なにやってるの!」と手をひっぱって現場まで連れてゆく帽さん。
容器のなかの醤油はからっぽ。冷奴の入ったお皿にすべて注いだのだった。帽さんは怒った。だめでしょって、もったいないでしょって。彼女に悪気はない。困らせようとやったことではない。ただ冷奴がたべたかったのかもしれない。いつも見ているみたいにやってみたのかもしれない。勢いよく流れるものの止め方がわからなかったのかもしれないし、重たかったが故の事故だったのかもしれない。お手伝いのつもりだった可能性もある。なにかよくない予感がして助けを呼びに行ったのかもしれない。「見ているみたいにやってみたかったの?ぜんぶ入れたらからっぽにすぐなっちゃってらもったいないんだ。ちょっとずつつかうんだよ。」と間に入り、引きとった。注がれた醤油はちがう皿に移して炒めものにでも使ったらいいねと伝える。
帽さんが怒ったからわたしはそんなことが言えた。思えた。のんさんと二人きりのときでましてや疲れていたら怒っていただろうなあ。
どのくらい注ぐとよいかというのは、いつごろどうやって習得したのかな、そういえばわたし。いろんなことができるようになってくると、注げたねーと褒めなくなったりしておとなって勝手である。きもち次第で褒めたり怒ったり。こどもはタフに受けとってくれている。
いたずらじゃない。悪ふざけじゃない。至って真剣に、時々調子には乗ってみたりして彼女はやってみている。どうするとどうなるのかを身体を動かして見つけている。

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