誰も愛せない人


 プルーストもニーチェも同性愛者だった。

 しかし、プルーストは一生食うに困らない金持ちであり、また、フランスはそもそも性風俗に寛容だ。
 だから、プルーストは自分や他人の同性愛については特に悪ぶれる風ではないし、それどころかシャルリュス男爵という同性愛者を主著の全編にわたって登場させ、興味深い人物像を生き生きと造形している。

 一方、ニーチェは貧しい育ちで、しかも、当時のドイツでは同性愛は社会的地位の喪失に結びつくスキャンダルだった。
 だから、ニーチェは自分の同性愛については絶対に語らないし、男性への愛を友情に仮託し、密かにその失恋体験を語りつつ、女性をどこまでも侮蔑的に描いている。

 同性愛者だからといって、一括りにして語るべきではないことは明らかだが、そんなアッタリ前のことを言いたいのではない。
 大事なことは、プルーストと比較しながらニーチェを読むと、そうした性的嗜好に不寛容な社会がもたらす悪い影響が明らかになる、ということだ。

 ニーチェは、同性愛であることをひた隠しにし、自分を密かに憎み、呪っていたに違いない。
 同性に対する会いを赦されず、異性も愛せない彼なのだから、結局、自分も他人も、誰も愛せない人間として生きていかねばならなかったはずである。

 その結果が、一方で本当の自分の姿を誤魔化すためのための大言壮語となり、他方ですべての他者に対する全面的な否定と攻撃になるのは、当然である。
 彼の著作に沿って言うならば、前者が「ツァラトゥストラはかく語りき」であり、後者が「愉しい学問」*である。

 誰も愛せない人間ニーチェの子孫が今日、米国にたくさんいて、彼らはリバタリアンとも、新自由主義者とも呼ばれている。
 彼らは、共同体に対する個人の絶対的な優越と私有財産の絶対的な不可侵を主張する人々である。
 ちなみに、スーザン・M・オーキンは「正義・ジェンダー・家族」の中で、私有財産の絶対的な不可侵を主張するリバタリアンは、腹を痛めて彼らを産みだした母親の絶対的な所有物ではないか!と痛快な反論をしている。
 この批判をも、念頭に置きつつこのニーチェを読むなら、彼が誰も愛せなかったこと、そして、常に他者を所有の対象と考え、征服すべき敵としてか接することができなかったこと、が明らかになり、彼やリバタリアンの精神的な貧しさと悲しさも明らかになるだろう。

 キリスト教界隈では、律法に基づいて性的多様性について不寛容な発言が後を絶たないが、ニーチェの例から学んで、自らを厳しく戒めるべきである。

 また、ニーチェを読もうとする若い人たちは、上記のことを念頭に置いて、彼の威勢の良い言葉を額面通りに受け取らないように、むしろその背後にうずくまっている誰も愛せなかった悲しい人間、ニーチェを読み取って欲しい。

 その上で、かつてニーチェの絶望が、自分以外の誰も尊重したくなかったナチズムに利用され、今日、自分のことしか考えないリバタリアンのニヒリズムが地球規模の危機を推し進めていることに思いをはせてもらいたい。

*このタイトルは講談社学術文庫版。wikiには「悦ばしい知識」の表題が用いられている。


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