人としての正道

こんにちは。ご無沙汰しております。

RYOです。

皆様,酷暑の中いかがお過ごしでしょうか。

またまた久しぶりの更新となりましたが,コレはnoteを書かずにはいられない!と考えて筆を走らせている次第です。

さて、"書かずにはいられない!"と申しましたが,そう考えたきっかけが
"電車の優先座席でスペースで、複数の家族連れが地べたに座って大声で談笑している"のを目にしたからです。

それも,子供はもちろんですが、その父親と思われる髭を少したくわえた中年男性もが床に座っているのです。

こんな親に育てられた子供たちは,どのように育っていくのでしょうか...

人の感情の機微を汲み取り、心優しい者...になればいいと思っているのですが、どうでしょうか。厳しいかもしれませんね。この家族達は。

さて,そんな状況を見て今回は
"人としての正道とは何なのか"について考えたいな,と思い立ちました。


実は私は常日頃から"人としての正道"とは何なのか、思索を巡らしています。

それは、私の祖父がとんでもないDV野郎だからです。
私は常日頃から"この老害め"と彼を蔑んでいるわけですが。

どのくらい老害なのか,については挙げ出すと枚挙にいとまがないのでまた今度の機会に。


とにかく,とんでもない老害が私の祖父であり、その血を継いでいることすらも嫌な私ですが,それを反面教師とする行動を日頃から心がけているつもりです。

謝罪や感謝は喧しいくらいに口にし、そこに余計な矜持は挟まない。素直でいることなど。

そんな人間ばかりに触れていると,ついつい人間嫌いになってしまいがちです。
実際私も全ての人間 (親友や親すらも、です) が嫌いな時期も存在しました。

しかしそれでも,私にはもうひとつの側面が存在しました。
それは、"人間は連帯して生きていくべきだ"とする人間好きの私です。

私はずっと,この2人の私を右往左往しながら生きています。私だけではない、皆様もでしょうが。

私は、今日"なぜ救いようもない人間を嫌いになりつつも同時に様々な人と出会い,連帯したいと切望しているのか"という問いに暫定的に答えを導き出しました。

それは、"自分にとっていい人、好きな人,護りたい人、共感できる人などに会うことで、人間である私自身の存在意義をどうにか保とうとしているから"だと思います。

実は,私はあまりに普段から祖父に接しすぎるあまり,老人がかなり嫌いです。

正直にいうと、この老害からはできるだけ金をむしり取ってやろうと考えています。だって老い先短い老人よりも、未来のある若者がお金を使う方が有益だろうから。そう信じて止みませんでした。

しかし,この私をも超越し俯瞰する私が、"それは人としての正道を逸脱している。"と警鐘を鳴らしているのも自覚しています。

それに関しては,弁明の余地もありません。上記の金むしり論はかなり危険な思想だと思います。

そこから私は,"あれだけ他人を蔑んでおいて,私自身もそのうちの1人じゃないか"と常に自覚し続けていました。

そんな私が、自分は存在していい、天寿を全うしたいと強く願う生存本能を
素晴らしい人間に出会うことで満たそうとしていたわけです。

"まだまだこんな人がいるなら、人間も捨てたもんじゃないな"と考えたいわけですね。

自分の存在意義を他者に委ねるなんて、なんと人任せなのか、と考えられる方もいるでしょう。
私もそう思います。

しかし今日は,色々考えて疲れました。

またこの続きはいつか。

俺は何のために存在しているのだろう。
そんなことを考えている方。

人としての正道を問い続けてください。そうすれば、私のように"この人がいるなら、この世もまだ捨てたもんじゃないな"と感じてもらえます。
誰かの存在意義になるために、我々は生きているのかもしれません。

ではまた。
殺人級の暑さが続いておりますから、何卒水分補給は絶やさずに。

ではまた。

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