「授業でもするの?」
と、他の先生に尋ねられたことが何回かある。今日も訊かれた。初めて訊かれたときは、意味がよく分からず「毎日してますよ」と答えた。
意味が分かったのは2回目に訊かれたときだった。私が不可解な顔をしていたからだろう、尋ねた先生は「研究授業をするくらいの準備をしてるねって意味だよ」と付け加えてくれたのだ。
研究授業というのは、授業を他の先生に観てもらい、授業のあり方を研究するものである。規模は様々だが、授業前の計画から授業後の事後研まで、お互いに意見を出し合うのが通常である。当然どの先生も入念に準備し、研究授業が近い先生は遅くまで残っていることが多い。
意味が分かったときは「がんばっているね」ということを先生なりに伝えてくれたのだと分かり、少し嬉しかった。
でも、嬉しかったのは意味が分かったその瞬間だけで、今は言われる度に複雑な感情になる。
話は少し変わるが、教育実習のとき、研究授業の前の練習として同じ内容の授業を隣の2組でやらせてもらったことがある。内容は酷いもので、担当教官と一緒に再度、授業案を練っていた。そのとき私は何気なく「今日が研究授業当日じゃなくてよかったです。」と口にした。すると担当教官はこう答えた
「そうだね。でも、2組の子達にとってはそんなこと関係なくて、一生に一回しかない大事な授業だったんだよ」
子供からしたら、研究授業だろうが普通の授業だろうが同じことだ。どちらも同じ授業であり、どちらも力を入れなければならない。
しかし、教材を作っているだけでこんなことを言われる学校の現状は危機的ではないだろうか。(それとも、私が勤務してきた学校が偶然そうだっただけなのか。)授業は教師の本分(異論はあるだろうが)なのに、それをしていることは珍しいことなのだ。
と、言いつつ私も研究授業となれば今よりもさらに時間をかけるので、この投稿は自分への戒めである。