廃墟から見つかった手記

例えばおこづかいで買ってしまったゲームソフト、あるいは親から買い与えられたコミックスのつまらなさを自宅に遊びに来た友人から指摘されたとき、作品に下された率直な評価を私や親の人格が否定されたと錯覚し、友人を非難して作品の不出来な部分まで肯定してしまうような幼い心理は、今日政治など大人の世界でも常態化しているくらい地続きで我々の生活を侵食している。そこで非難された友人側が発する「批評なのだからあなたとは切り分けて考えるべきだ」という正しい反論に頷きつつも、友人らと同じ立場に私が身を置くことができないでいるのは、幼き者のこじつけよる曲解的肯定が表現という行為において可能性を秘めているからであり、私が人や作品で感動するのはいつだって脆い橋の上で冷や汗をかきながら堂々としていた者による新しい解釈であったわけで、正しい意図を汲み取った解釈は時に未知の面白さの可能性を狭めることに繋がりかねないからこそ正解に身を浸すことに危うさを感じるのだが、そうした宙に浮いた立場は、政治と活動が切り離せなくなってしまった今日においては、無関心という形で体制側に回収されてしまうので、ユーモアのみを信じている者が息苦しさを感じずにかつての活動を続けることはむずかしくなっている。この個人の息苦しさに重くのしかかっている原因のひとつに「単体の発生」がある。単体とは、共感力こそ至高とされる社会に身を置き続けたことによって、自我や共感を司る人格が肥大したまま性格が1つに統合されてしまうことで、自分のなかに本来あるはずの他者が共存不可能となってしまった状態である。単体者が集まることでヒトの内面はさらに画一化されていき、やがて「全体の発生」へと変化していく。こうなってしまうと相互監視がはじまるので逸脱することは不可能になる。われわれ研究員は、単体者の増殖を食い止めるべく、人格が統合される以前の人類が所有していた共感の外部域で発生する未知の感動を求めて活動する別人格「ポコチンウンコマン」を現代に復活させる新規プロジェクトを立ち上げた。統合されて埋没してしまった人格「ポコチンウンコマン」のレイヤー階層を共感よりも上層に持ちあげて統合し直すことで、ヒトの内面にポコチンウンコ域という私ではないグレーゾーンが発現し、そのとき人は「私は私であり、ポコチンウンコでもある」という理性と超越的態度が共存した精神状態に達する。ポコチンウンコマンになることで、ものごとに新たな視座が発生し、そこではじめて本来の意図を汲み取ることとは別の対話がはじまり、自分だけの新たな解釈=共感を超えたものごとの深い理解へと繋がっていくのだ。あなたはあなたのまま、あなたをそっと奥へ押しやってポコチンウンコを呼び覚ますこと。それが単体からの解放であり、その果てにあるのが多様性の賛歌であり真のユーモアである。つまりユーモアとは、多重人格的解釈=単体者によるマルチアングルなしには到達不可能であるという仮説が実証されるのだ。ポコチンウンコマンになる方法について、詳細は後述するがセロハンテープを鼻を持ち上げるような形でおでこに貼ればよい。その際、背伸びをすることで統合されている人格は解体し、階層化された人格のなかにあるポコチンウンコマンのレイヤーが共感のレイヤーよりも上層へと持ち上がる。シンプルかつ物理的な仕組みであることに眉をひそめる者もいると思うが実証済である。また、ポコチンウンコなる概念を疑問視する声もあると思うが、性器を生殖器として扱わない態度に社会に対する批判があると解釈してくれれば幸いだ。なお、逆に人格を減らして統合の再建をはかる仏教による滅私の方向性も検討したが、近年増殖している僧侶によるユーモアに良くないものを感じたので棄却とした。

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