涙はしょっぱいと言うけれど、泣きながら食べるごはんは喉の奥でとても甘くなる。飲み込むと少し痛い甘み。悲しみの味は甘いのかもしれない。
 研究室の先輩が卒業して明後日から来なくなる。明日が最後。人生7週目くらいの立派な先輩だった。私は人によって態度を変える人が苦手だ。そういう人たちはもれなく私にきつく当たる。けれど、この先輩は口の悪い年上に対しても気の弱い年下にも私にもダメなことはダメだと言うし、どうでもいいことはどうでもいいと言う。先輩は春の日差しに似ている。本当に人徳者だと思う。彼女の人格を作り上げた環境と遺伝子にひどく嫉妬している。あと何回か頑張って生きて人生何回目かになったら先輩みたいになれるかな。
 近くない悲しみに対してはとても悲しく感じるのに、すぐそばに迫る悲しみはあまりにも近くてよく分からない。味のしない綿を噛んでいるようだ。
 私はこれまで去る側であることが圧倒的に多かった。小学生のときは転校生だったし、高校・大学では遠くの都会の学校へと旅立つ側だった。去年、仲良かったバイトのおばちゃん、同じアパートの同級生と連続して別れが訪れてとても悲しかった。縁が切れる音がして、自分が置いてけぼりにされる気がした。今年は、去年よりは大丈夫だ。縁が切れる音は聞き間違いで、一度繋がった縁や思い出は一生会えないという理由ではなくならないし、そしてあっさり会ってしまうものだ。よく別れの悲しみの慰めとして新しい出会いが持ち出されるが、そんなもので悲しみは消えない。悲しみはそんなに大味ではなく意外と淡白な味だ。そう思っているのに、どうして味のない綿のような空虚感が私の中に積もっているのか分からない。
 もう春だというのにダウンジャケットを着ているくらい寒い。桜は咲きそうにない。コンクリートの隙間のスミレも今年はまだ見てない。明日の雨が通り過ぎれば西から春が来るだろう。桜が咲いて、スミレが目を覚ますだろう。そして先輩のいない悲しみを抱えたまま静かに春が始まるだろう。新しい今年がそこに立っているだろう。

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