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積み重なった死 2023.02.05

朝7時起床。レトルトカレーを温めて食べる。疲れていて思ったように体が動かない。のんびり過ごしてから外出。伊丹まで。青年団による「日本文学盛衰史」(平田オリザ作演出)を観に行く。

伊丹空港には何度も行っているが、伊丹市を歩くのはほとんど初めてかもしれない。駅周辺は区画整備がされていて、巨大なイオンモールもある。電車でのアクセスも思ったより悪くなく、大阪や尼崎、西宮あたりのベッドタウンで栄えてるんだなと思う。恥ずかしながら日本酒で有名ということも知らなかった。

丸美食堂という定食屋で昼食をとる。酒どころで飲む粕汁は特別な感じがする。おかずも美味。観劇に向けて腹ごしらえが整う。

演劇ホールへ。残念ながら台本は既に売り切れてしまっていた。平田オリザが普通に立っているのでびっくりする。

舞台は畳張りの広い茶の間のようになっている。開店前からお膳が運ばれてくる演出。何かが起きるぞという予感がひしひしとする。そして開演。そこから約2時間半は怒涛のように過ぎていった。
舞台は「北村透谷」「正岡子規」「二葉亭四迷」「夏目漱石」それぞれの葬儀の四展開。あの舞台はつまりは葬儀の場なのであり、つまりはこの作品を通底しているのは「死」だ。北村透谷の自死、二葉亭四迷の客死、子規漱石の病死などその死にもグラデーションがある。その他にも、若くして亡くなった一葉、啄木、賢治。刑死した幸徳秋水。虐殺された伊藤野枝……日本文学の歴史には幾重にも死が折り重なっている。
作家たちの死が照射するのは近代国民国家の裏面だ。劇中でも以下のような場面がある。国民国家は言語の統一を要請した。国民国家と近代文学が不可分であることは劇中でも明示されている。
しかしそれによって人々(主に政府)は「書かれていないこと」を恐れるようになった。表現された言葉の裏にある、隠されたテクストを恐れるようになった(これを劇中では非常に風刺的に取り扱っている)。その「おそれ」は戦後の焼け野原と地続きだ。それは無数の死を包摂している。「日本文学盛衰史」は明治と現代をコメディ的な手法でオーバーラップしていく。しかしその絶え間ない往還の中に常に漂っているのは死のにおいだ。しかし劇の最後は「それでも日本語は残った」という希望を持たせるものだ。このとき思い出すのは西川長夫の一節だ。

国民国家の崩壊現象を、私たちは国民国家の言語で論じるという困難につきまとわれている(文化や国民という用語を用いずに国民文化を論じることはむずかしい)。国民国家のなかで形成された諸概念はつねに両義性をもち、私たちはその両義性のなかで生きている。私たちの手持ちの概念がつねにそのような概念である以上、私たちにできるのは、変化してやまない現実のなかでその両義性を自らの眼で見極め、限界にまで追いつめられた概念の変容と自己展開のなかに未来の可能性を探ることでしかないだろう。

西川長夫『増補 国境の越え方–国民国家論序説』


最後は日本文学が好きで本当によかった、その一言になってしまう。終演後、平田オリザの本を買いサインをもらう。


満席で入れなかった立ち飲み

その後立ち飲み屋を覗いたが満席で入れず、餃子を食べて伊丹をあとにした。しばらく電車に乗っていても演劇で心がいっぱいだったので淀川が見たくなり、塚本で下車。

淀川を歩き続ける。ずっと歩き続けて千鳥橋まで歩き、シカクでmameさんの展示を見る。たけしげさんと少し話していたらApple Watchが「お話しできて楽しかったです」と急に喋りだす。

家に帰って晩ごはんを食べて、寝る前に大阪の生活史の文字起こし。がんばらないと。

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