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責任をめぐる難しさ 2023.10.18

朝5時半起床。仕事へ。昨日終わったかと思ったトラブルが再燃。夕方に急遽、相手との打ち合わせに入ることになる。今日は19時からラテラルで岸政彦さんと朱喜哲さんのトークイベントがあるがたぶん遅れるなと半ば諦める。

18時半前までその対応に追われる。急いで電車に乗って中崎町に向かうが到着が20時になる。仕事とはいえこういう形での遅刻はやるせない。入場して後ろの方の空いている席を見つけると、そこが偶然ホリーニョさんと田澤さんの席の近くだった。メガハイボールを注文して飲む。たこ焼きやポテトをみんなでシェアする。

前半を聞けていないので全体的な議論は分からないが、朱さんの新刊『〈公正〉を乗りこなす』をベースに公正(フェアネス)や正義(ジャスティス)、責任や被害と加害の問題が主に語られていた。
お酒をぐんぐん飲みながら、スマホで乱雑にメモをしていたので正しく伝えられるかは分からないが、いくつか気になった話をまとめておく。

・被害と加害の問題を考えるときには必ず責任や処罰の問題が付随する。被害者からすると加害者は「消えてほしい」くらいの存在だが、現実としては加害者に責任を取らせたり処罰する方法としてそこまでの厳罰は望めない場合が多い。ではどこまでいけば「責任を取った」と言えるのかと言われるとそれも難しい。過剰な責任を求めない、というのは被害者への二次加害とも表裏一体だし、責任解除は避けなくてはいけない。どこまでいっても難しい……。

・社会のあり方として、人の内面を変えることはできないが「残酷さを減らす」ということはできる。しかし「残酷さ」にもグラデーションがあって、なおかつ被害の中にいる人は言葉を奪われていることが多い。結果として強者の理論に陥りがちである。そのひとつの答えとしてジャーナリズム的な書く人、言葉を伝える人の存在が機能することが挙げられるが、代弁することはまた別の問題も浮かぶし、被害者は言葉を奪われていることには変わりがない。それが難しい……。

・「(社会で抑圧を受けている人)よりも(自身の人生の現状)の方がつらいんだ」という話法があるが、それを表明する自由は社会にはあっていいがそれが社会に受け入れられるかは別。厳しい話でもあり、難しい話でもある……。

メモから思い出せる範囲で書けるのはこんな感じだ。途中から齋藤直子さんも参加するという豪華な会だった。

僕はそれを今日のトラブルも近いところがあるなあと思いながら聞いていた。
仕事のことなので詳しくは書けないが、相手はこちらに答えや解決策を求めているが簡単に答えの出せない問題で、だけど目の前の人は確かに苦しんでいて……という話で、強い手段を使って悩みを解決させる方法となくはないが、それが根本的な解決になるかと言われると怪しい。結局相手の話を聞いて受け入れてあげることしかできない。
岸さんと朱さんの「責任」や「加害と被害」の話が刺さりに刺さった。

しかし本当に答えのない議論だ。岸さんも「これが難しいねんな……」「いまだに分からへんねん」と繰り返していたのが印象的だった。

責任をめぐる問題には必ず「決定」という要素がつきまとうが、その決定が必ずしも正しいとは限らない(それこそ複雑であることがほとんどかもしれない)。しかも決定するということには特権性みたいなものもあって、誰が何をどのように決定するのか、というのにも答えはない。難しい。難しいのだ。

ホリーニョさんと田澤さんには仕事の話も詳しく伝えると「ようやりますわ」とホリーニョさんが言ってくださるが、よく聞くとホリーニョさんと僕の仕事には同じような面があって、でも互いのスタンスがまったく違っていたので面白かった。

最後、岸政彦さんにもご挨拶できたのでよかった。

2人と話しながら天六方面まで歩く。また飲みましょうと約束して別れる。僕はそのまま電車に乗って帰り、家に着くなり眠りについた。

電車の中では岸政彦さんの日記を読んだ。出町柳のジャズ喫茶は、ピザトーストが美味い。

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