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スナック良子

朝から遺影の前で遺影を書いている息子を見て、どう思っているんだろうか?

父が死んで18年、母が死んで12年。早いものです。
遺影という形状が悪いのか、なんとなく見ていると気分がしんみりするので過去の出来事を明るく思い出しています。僕はなんとも愉快な両親に育ててもらったと勝手に思っているが、死んでみて生前をどう振り返っているのか、二人に尋ねてみたいものです。

今日くらい両親との記憶と辿ってみよう。
実際に両親から聞いたり、僕が見たりしたことなので、もしかすると多少周囲の印象と違うかもしれないけれど、それはそれとして後で答え合わせをしようと思う。

僕、泰志は、昭和12年佐賀県伊万里市生まれの父・正元(まさもと)と昭和17年千葉県野田市生まれの母・良子(りょうこ)の長男として生まれる。父は再婚であったらしいと死後に知った。母は僕たち兄弟に黙っていたのだろう。半分九州の血が入っているというのは嬉しいものです。

幼少から裁縫や芸術を好みファッションカメラマンと画家志望だった母。当時でいうハイカラ娘という感じだったようだ。そんな良子さんは、家政系の女子大学を出て水道設備業の父・正元さんと出会い結婚。正元さんは大学進学で上京し東京や野田の設備屋で現場監督として働いていた。手書きの地図や図面を書くのが得意でなんとも綺麗だった!

僕がよちよち歩きの赤ん坊のころはあっちこっち行かないように、腰にお手製のリード(紐)を巻きつけられていたようだ。

幼少期。幼稚園は休み放題。大人になったら休みがないから今のうちに休んでおけ!というのが良子さんの子育ての根本だったそうです。その代わり、いずれ役に立つからと、体操、英語、ピアノ、野球、油絵、オルガン、スケート、水泳、習い事はなんでもやらせてくれたし、辞めたいと言ったらすぐに辞めさせてくれたので、ほぼ全部辞めたけど、ピアノは中学3年まで、野球は大学まで続けさせてもらった。

僕が10歳の時に父は独立し、「正良工業」という夫婦の名前を組み合わせた設備屋を開業する。憧れとは程遠い町の設備屋のオカミサンとして、父の仕事をサポートすることになった良子さん。どんぶり勘定の正元さんに変わり、経営から子育てまでこなすハイパー母ちゃんという感じだろうか。

麻雀好きの正元さんは、週末にオッカナイニッカポッカのお兄ちゃんたちを家に呼んで、朝までドンチャラドンチャラ麻雀を楽しんでいた。僕はタバコ臭い部屋で、お兄ちゃんたちのリーゼントやパンチパーマを眺めていた記憶がある。ある日、いきなりシーマを買ってきて家族がざわついたこともある。豚もおだてりゃじゃないけれど、儲けもないのに車で見栄を張る正元社長さん。

中学になると良子さんに、不良は外でするなと言われ、なぜか自宅に酒、タバコが買い置きしてあったが、「イヤイヤイヤ・・・」と息子たちがいさめる始末。誰かの受け売りか、体にいいからといって毎日クエン酸を飲まされたので、中学の思い出はほぼクエン酸で埋め尽くされている。酸っぱい思い出。

高校の授業参観にはアフロヘアにサテンのピンクで登場し校内が騒然となる。その日から、スナック良子というあだ名になる。

そして大学まで行かせてくれてありがとう!
でも良子さんからは家を継ぐな!設備屋に未来はない!と言われて、兄弟それぞれ別々の道を模索。本当に継がないんだ〜と知った時の正元さんは悲しそうだったな。ごめんね、多分、設備屋が悪いわけではなくて、正元さんが経営する設備屋には未来がないということだよ。誤解しないでね。

正元さんはあまり登場してこないけれど、穏やかで優しい人でしたな。お金で苦労した人、させた人(家族)。そんな正元さんも脳梗塞になり介護生活。正元さんを先に看取ってほっとしたのか、良子さんも乳がんを患い闘病生活。余命3ヶ月を宣告されたが、抗がん剤のおかげで6年も生きることができ、僕たち夫婦の結婚式の10日後に旅立ちました。少しもたもたしちゃいましたが、なんとか間に合いました。

そんなこんなで、遺影の前でリメンバーした朝でした。
今日はお墓に行きますよ。

さ、今日もおちゃのまポップな一日になりますように!

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