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本当は1年くらい寝かせる予定で先月書き上げたnoteだった。
だけど、読んでしまうと、なんだか生々しい痛さが残る今の方がいいのかもしれないと思ったからあんまり人目に触れないように出してみる。そのうち、母親にも見られるかもしれないと思うと少し怖いが。


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思えば家族というものの形にひどく固執している。
多様な家族の在り方を尊重しましょうだとか、あるいは色々な構成の家族の形を実際に目にする現場に立ちながら、それでも、私は「父と母と子が同じ屋根の下で暮らし、いつまでも仲良く幸せに暮らしましたとさ」という姿を求めている。そんな家族、現代日本社会においてほとんどいないよと笑われるかもしれない。仲良さげに見えて、内実は冷戦状態なんて家庭も多くあるのだろう。しかし私は、華やかな銀婚式をあげる両親に、曇りのない感情でプレゼントを渡し「おめでとう」という同世代の友人をSNSで見かける度に、こうした「幸せな家族像」が実在のものだと実感する。

我が家に離婚の話が露骨に出るようになって10年。妹の成人を機に、本格的に家族の分断へと動き出したのがわかったが、自分が20歳で家を出たのをいいことに何も見えないふりをしてきた。コロナも幸いして実家に帰らない期間がほとんどであり、家族のバラバラ具合が私の耳に入ることはほとんどなかった。
妹が進学したのち、たまに一人暮らしの私の元に泊まりに来るようになって家族の状況を教えてくれることにより、またあるいは彼女が紡いだ文章を読むことで、膠着状態にあるものの明らかに家族の溝は深くなっていることを知った。同時にもはや元に戻るなんて幻想で、早くバラバラになった方がよっぽど幸せなのかもしれないと確信していった。


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先日、肺に穴が空いて入院をした。ほんと、些細な転倒のはずが緊急入院になって笑えなかった。孤独な1週間を経て、帰りは恋人にでも迎えに来てもらおうかなんてのんびり考えていたのも束の間、父と母が揃って退院の際に迎えに来てくれることになった。これだけを聞いたら随分恵まれた家庭なんだろうと思う。実際、うん十万する入院費の頭金を、何も咎めず支払ってくれたことには頭が上がらない。母から父に、迎えの車を出してほしいと連絡したものには半日以上返信がなかったらしいが、私から父に連絡すると10秒ほどで迎えに行きますと連絡が来た。両親の間では話が進まないので、私から二人に同じ内容の連絡を送り続ける。「退院の時間が決まりました。」「どこどこの受付に行ってください。」

救急病棟から出て、エレベーターホールの前で看護師さんに「お世話になりました」と頭を下げる母の姿は、たった春休み以来の3ヶ月ぶりのはずなのにひどく小さく見えた。その倍の期間会っていなかった、正月ぶりの父は、二回りほど小さくなっていた。私よりこの人、こんなに小さかったっけ。白髪が増え、腹が出て、腰の曲がった二人をそれぞれ見ながら、この二人をまとめて見るのは本当にいつぶりだろうと呆然とした。
車に向かう途中、それからスーパーに向かう車内で束の間の「家族の時間」が誕生した。実際の会話は私と母、私と父なのだが、不思議と3人で会話しているかのような雰囲気になる。とりとめもない私のささやかなボケに笑う二人を見て、ひどく安心した。

一人暮らしの家を1週間以上空けると、冷蔵庫の中は何も残っていないに等しい。病院と家の間にあった手近なスーパーに入り、野菜の価格の高騰にぶつくさ言いながら3人で買い物をする。家族で買い物か。いつぶりだろう、いつかあったのだろうか、いやあったはずだ。ただ、記憶の中の買い物は、父も母も私より背が高く、そして母はたいてい少しツンツンと怒っていて、あるいは呆れていて、父はドスドスと歩きながら店内をふらっと回り、手に取った商品に対して一人リアクションするタイプだった。
この日は、両親とも穏やかで私の自炊生活の話を聞きながら、父の持つカゴに食材を入れていくという、なんだか絵に描いたような家族の時間だった。私が将来に思い描く家族像なんてものはこういうのかな、なんて冷静に思う自分がいた。お菓子コーナーの前で、時間差で二人ともから
「お菓子はいらんの?」
と聞かれた時、もう我慢の限界だった。
「一人暮らしでお菓子は買わんし食べんて」
と笑う私の声は乾いていた。うまく笑えていただろうか。ねえそんなこと、今まで言ったことなかったじゃない。なんだか少し視界がにじむ。私に子どもができたら、この両親が孫に見せる顔はこういう姿なのかもしれないと想像する。ただし二人が揃っていることはないことも確信する。それから、二人が今日は「家族」をしようとしていることを感じる。それならなぜ、ここに妹がいてくれないのだろう。ありえないほど美しいゆったりした「家族」の時間に、どこか欠けたものを感じる。

一人暮らしの私の家に両親が上がるのは、引越した日以降初めてだった。この家に入居の日、まだ段ボールまみれの部屋で三人でマクドナルドを食べたねと話す母を見て、それから、一緒に組み立てたベッドが部屋の右から左へ移動させてあったことに驚く父を見て、二人を揃って見たことは3年前の入居の日であったと気づく。2019年9月21日。記念すべきひとり立ちの日。
随分居心地が良くなったじゃないと部屋を見渡し、ベランダでタバコを吸う母と、部屋の隅でスマホのゲームをする父。病院からこの部屋までの1時間足らずの「家族の時間」が終わろうとしている気配に、全員の居心地の悪さが滲み出る。
何か話さなきゃやってらんなくて、大学のことや恋人のことを話す。ちょうど二ヶ月前に前の人と別れたという話をすると「なんで?」なんて母が聞くもんだから、理由なんていくつかあったはずなのに、わざわざ「私のこと、結婚してもいい人だけど結婚したい人とは思えなかったんだって。そもそも結婚願望も微妙で、するなら私でもいいけど、私がいいではないみたいな」と話す。自分でも、この二人の前で言う理由はわざわざそれじゃなくて良かっただろうにと思う。
努めて明るく話していても、気づけば話題は進路とお金の話になる。さらなる進学を希望していること、お金はなんとかなると思っていたけど意外とどうしようもなくなっていることを正直に話すと、思っていたよりすんなり応援の方向に話が進んだ。そっか、私何とかなるんだ、と思っていた矢先、気まずそうに母がリュックから書類を出す。
「もうあとこれ、書くだけやねんけど。〇〇(妹)は快諾してくれてんけど、証人のとこ、名前書いてくれへん?」
部屋の温度が2℃くらい下がったのは気のせいだろうか。いや多分、扇風機がこっちを向いたからだと思う。差し出されたのは離婚届だった。最近私のSNSでは良く見かけるようになった婚姻届は、いろいろなデザインがあって可愛らしいのに、離婚届は役所の紙らしくひどくシンプルなものだった。当然か。
「これって実の子どもが書いていいもんなん?」
と聞く私の声は至って元気で笑いが混じっていた。成人したら、と答える母と、さらに背中を丸めてスマホから目を離さない父。そうか、成人したら大人だもんな。私もう、23歳だもんな。
「証人欄って二人書かなあかんねや。良かったな、子ども二人産んでて」
と笑い、いいよとボールペンを握った。殴り書きになりそうな右手を必死で止める。書きながらいくつものシーンが頭によぎる。妹に授乳させる母が「(こうして二人目が産まれたけど)子どもができて、これでもう逃げられんやろうって(父に)言われた」と言いながら、物置のような部屋で泣いているという私の3歳の頃の唯一の鮮明な記憶がまた蘇る。自分は家族を繋ぎ止めることを期待して作られた子どもなんだと書かれた妹のnoteが思い浮かぶ。離婚ができないストレスで鬱になっている目の前の母を思う。認知症の実母の介護をしながら田んぼと家のことと会社員という忙しない日常に没入し逃避することで離婚を先送りにする父を思う。
書き終わった書類を、母は父に渡した。この書類を提出する前に、家とか諸々の手続きを先にしなあかんという話が目の前で始まる。聞きたくない、帰ってよもう、知りたくない、なんて子どもじみたわがままが喉の奥に詰まる。

外で「今日はありがとうね」と二人の車を見送った時は、ひどくせいせいした。退院なんてイベントを忘れるほど、濃い1時間半だった。部屋の鍵を閉めて一人になってはじめて、帰宅を感じられた。生まれてこの方、随分と「こんな家族のもとに生まれたくなかった」と言ってきた私なのに、こんなにも今日明確に家族が制度上も離れることを嫌がる自分に気がついた。この家族は嫌だったはずじゃない。多分それはそう。ただ、できればやっぱり「いつまでも家族仲良く幸せに暮らしましたとさ」と物語の通り閉じてほしかった。このメンバーでそれが叶わないことがわかった時点で、ずっとずっと、やり直したかった。


* * *

反抗期という形で家族を憎むようになってから、ずっと抜け出せずにいる。妹とは仲良くやっているのも、なんだかんだ両親という共通の敵がいたからなのかもしれないと振り返る。私が妹に「あんたのこと友達やと思っている」と話した時に泣かれたことは何度だって思い返される。だけどあれは、単に私に当時友達と呼べる人が少なくて投影していたというより、共に重い空気が蔓延るこの家庭の中で笑って生き延びるための戦友みたいに感じていたというのが本音だ。
別に実際両親は私たちに危害を加えてくることはない。むしろ大学院まで行かせてもらい、一人暮らしをさせてもらい、ずっとやりたいことは比較的させてもらってきた、極めて恵まれた幸せな家庭なのだろう。その内実が、こんなにも壊れてしまって歪んでいても、果たして幸せなのだろうか。
小学生の頃の、漠然とした「家族がバラバラになるかもしれない」という不安感は、これから私たちは不幸せになるに違いないという感覚だった。それが中学に入ると、こんなにもいがみあうのならなぜ無理にでも一緒にいようとするのだろうと嫌悪感へと変わった。「子どもにはやっぱり両親揃ってた方がいいと思うから、あんたたちが成人するまではなんだかんだ離婚しない」と、まるで私たち姉妹のためにこのギスギスした空気と関係性を続けるのだと話す姿を、ひどく軽蔑した目で眺めた記憶がある。

そんな宙ぶらりんの、子どもの成人待ちという時間潰しの間に、私は何を受け取ったのだろうか。両親揃っていることは本当に素敵なことなのだろうか。いっそいっそ、そんな重い空気を持ち込むなら早く別れてくれとぶつけた日があったのも事実だ。だから、本当に無事話が進んでよかったのだろうとは思う。宙ぶらりんが一番しんどい。時間潰しが一番疲労が溜まる。だから結果がこういう形でもなんでもいいから、きっと進んだ方が幸せだったんだ。ねえそうでしょう。
ずっと言ってきたやん。幸せな家庭が欲しい、欲しかった。でもそれは幸せな家庭になりたいとは違う。今いるこのメンバーでそれは叶わない。そんなことはわかっている。だけどでも、でもさ、私も幸せな家庭の中で子どもをやってみたかったや。なんでもないうそうそ。私は十分幸せな幼少期を過ごしたよ。そして家庭には恵まれていると思うよ本当に。


私が将来に求める家庭像は、至って明確で単純でお花畑だ。
幸せな恋愛の末結婚し、仕事で疲れた夜、互いに労い合いながら同じ家でひとときを過ごし、子どもにはたっぷりと愛情を注いで、週末はみんなで買い物や旅行に出かける。夫婦や親子で喧嘩したって翌朝にはごめんなさいで仲直りして、幸せになるんだ。
書きながら思う。これは私が「子どもとして」生まれたかった家庭だ。私が「親として」築きたい家庭ではない。一社会人としていうなら、私の目指す職は土日もたいてい仕事しているし、30代こそキャリア形成で重要な時期で子どもとか言ってらんないし、どこに職場が見つかるかわからないからパートナーと同居できる確率はかなり低い。いつまで夢を見続けるのだろう。現実逃避でしかない家族像を、擬似的に恋愛に投影する日々はいつまで続くだろうか。毎晩毎晩会いに来てほしいと言い、ただいまとおかえりをわざとらしいほど繰り返し、作った料理を一緒に食べたりダラダラと過ごす時間に何度も何度も「幸せだね」と再確認するのは、これこそが幸せな家族像なのだと言い聞かせているようですらある。

今の私の恋人との生活が、万が一永続的ではないにせよ、せめて今の幸せだけは本物だと言ってほしい。

ぽてと



ごめん嫌だったらこの引用はすぐ消す。



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