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評価の是非

評価が必要なことは理解している

会社に勤めていると、定期的に人事評価がある。
最初に目標を立てて、それができたか云々で上司に色々言われるアレである。部下がいれば、逆に云々言うことになるアレである。
両方とも経験があるが、ボクはどーにもこの人事評価というモノが苦手だ。別に成果を出していないわけではなく、それを評価されていないわけでもないが、苦手だ。
他人を評価するのも、他人に評価されるのもどちらもできればご免こうむりたい。それをしているオマエはダレなんだよ、といつも思っているし、逆に自分が評価をする際はオマエは何様なんだよ、といつも思っている。
キャリア的に数値に非常にセンシティブな業界やシゴトをやってきたので、評価疲れしているのかもしれない。
また、他人の評価を気にしないよ、というほど性格的に太くもないし、陽キャでもないので、なんだかんだ評価を気にしてしまう自分がいるし、こんな自分が嫌になる。

評価がますますあふれている

とは言いつつも、現代がこれまでにないほどの評価社会であることは否めない。別に会社に限った話ではなく、SNSの浸透にあわせてあらゆる形で、あらゆる方向から評価の波が襲ってくる。AIが個人を社会的に評価する時代もそう遠くないだろう(というか、中国ではすでに実現しているが)。
常に他人の目線を気にして、自分の言動に気を使い、SNSのクリックに一喜一憂する、という生活はとても息苦しい。
日本は同調圧力が強い社会と言われているが、世界中どこでも変わらないと思う。少しでも差別的(と思われる)表現をすれば、あっという間に世界中からたたかれる。
こういう世の中で空気を読んで上手いこと切り抜けられる人たちが勝ち組になり、賞賛を集めていくのだろう。
ボクにはムリだ。

だから投資をやっている

投資をやっている理由はここにある。もちろん不労所得を稼ぎたい、という理由もあるし、日本ではキャッシュの価値が下がっていくから必然的にやらざるを得ない、という理由もある。

ちなみに日本人の平均給与はここ数十年ほぼ横ばい、むしろ多少下がった局面もあるくらいで、一方税金と年金は年々高くなっている。

だが投資においては自分を評価するのは自分だけなのだ。失敗はそのままマイナスとして全部返ってくるし、そこに他人の入る余地はない。運不運はあれど、いちいち他人を気にする必要もないし、その余裕もない。
ボクは、この感じがとても心地よくて投資を続けている。
ビットコインで儲けた話を聞いても、スゴイなー、とは思うもののそれ以外の何物でもない。別にそれと比べて自分がダメだ、とか考えたりしないし、ここで他人を自分と比べだすのであれば投資はやらない方がいい。

という話を友人にしたら、現代社会で生きてくのに向いてないね、と言われた。その通りだと思う。
息をひそめてひっそりと生きていくしかないのだが、ダレもがみんな適応できるわけではないだろうに、といつも考えている。

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