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コロナがボクたちの信仰を殺すかもしれない

ボクは別になにかの宗教を信じているわけではない。
ここで言う宗教とは、いわゆる世間一般で言われている宗教で、仏教とか、キリスト教徒とか、イスラム教徒とか、のことである。そういう意味でボクは典型的な日本人で、クリスマスを祝うし、正月は参拝に行くし、葬儀はお坊さんに頼む。まあ、クリスマスを祝う相手はいないのだが。

ただ、もう少し視野を広げるとそんなボクでも無条件に正しいと信じている「信仰」があることに気づいていた。
普遍的な人権とか、個人の自由とか、労働の善性とか、成長の肯定などである。これらは、信条とか価値観とかイデオロギーとか呼ばれることもあるが、特に目に見える証拠がないにも関わらず、正しいと信じている、という意味では宗教とあまり変わりない。

最近では、これらのことに疑問が出てきて、アーリーリタイアなりを考えるようになってきたが、それでも上記のことについて、それが正しくないと否定することはできない(正しくないと理論的に説明することもできない)。普遍的な人権を面とむかって公に否定すれば石を投げられるであろう。炎上間違いなしである。ただ、これらの正しさに明確な証拠はないのだ。なぜ人権を尊重せねばならないのか、と問われれば、それが正しいからだ、としか言いようがない。人権は人々の頭の中にある想像の産物であるが、非常に強力な産物である。

ちなみに、人権を重要視する人がいわゆるリベラルと呼ばれる人たちで、自由を尊重する人たちがリバタリアンに該当する。これらは現代社会でいずれも非常に大切な価値観であるが、なにを大切にするかでそれぞれのポジションや主張が異なっている。

成長の正しさの根拠

そういった正しさの中でで成長することの大切さについて少し考えてみたい。ボクたちは幼いころから成長することの大切さをあらゆる場所、時間で教えこまれてきた。家庭で、学校で、会社で。そして、成長しないことは悪いことである、と半ば脅迫的に刷り込まれてきた。まるで泳いでいないと死んでしまうマグロのように永遠に走り続けなければならないと言われ続けてきた。

なぜこのように考えるに至ったのであろうか。それは経済的な豊かさの向上と経済活動の拡大を基本的な前提に現代社会(資本主義)が組成されているからである。言いかえると現代社会(資本主義)は泳いでいないと死んでしまうマグロである。常に新しい資本、消費、生産を要求して規模を拡大しつづける仕組みを資本主義は内包している。この拡大が停止、もしくは縮小することを不況という。

この仕組みのおかけで日本人を含め多くの人が貧困から脱出できたことは事実で、それ自体が素晴らしい功績と言える。また、多くの人の人権を経済成長が担保してきた。ゆえに成長することは正しく、すべての人にとって成長は義務となる。

ただ、人間は無限に同じ成長曲線を描くことはできないし、基本的に追われるより、追う方がカンタンである。それが常に成長を要求されることの息苦しさにつながるのだと思う。まあ、もてる立場の傲慢さと言ってしまうとそれまでなのであるが。

コロナは必然的な経済活動の縮小を伴う

コロナによる経済への影響は各所で様々なことが言われているが、正直なところ誰にも分らない。一つだけ言えるのは経済活動が停滞、縮小している、ということだけである。これは成長に必要な消費や生産が提供されない、ということで資本主義には致命傷になりうる。そしてこの状態が長く続くと、成長を前提としない経済、社会システムの構築が必要で、この状態ではむやみに成長することはよくない、というような価値観が生まれてくるかもしれない。

どうなるかは分からない、それがいいことかどうかも分からない、でもそんなディストピア的な世界は少し前まで想像もしておらず、SFのフィクションであったことを考えると世の中急激に変わりすぎである。

と、暇をもてあましたので思考実験してみた。


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