同誌少女よ、敵を撃て

だれが自分にとっての敵で、だれが自分にとっての仲間なのか。
それの区別は簡単なようで難しい。

ぼくは大学生活をサッカーに捧げている。自分の力を試したい。そんな思いで大学でも「本気のサッカー」を続けている。同じような志を持った部員は約50人いる。当然レギュラーとしてピッチに立つのは簡単なことではない。

そんな僕のチームメイトはサッカー選手として高みを目指す”仲間”であり、たった11人しか立てないピッチを奪い合う”敵”でもある。この構図はわかりやすい。

でも、チームメイトなら本当にだれしも”仲間”であるのか。
サッカー選手として高みを目指すうえで切磋琢磨しあえる関係なら”仲間”である。だがしかし、やる気のない部員、努力を馬鹿にするような部員は”敵”とみなすこともできる。

戦時中においてはどうか

このように”仲間””敵”の境界線は極めてあいまいである。
そして、それは戦時中
ソ連VSドイツ軍
という敵対する相手が明確な状況においても同じである。

危機的状況において、自分の命欲しさに無責任にその場を投げ捨て逃げ出す兵士。いわゆる逃亡兵が銃殺される場面があった。皆が必死に戦う中、無責任に敗走する彼らは、軍の士気を下げる存在である。また命がけで戦う仲間の存在を内外城にする。だから、殺される。つまりは”敵”とみなされる。

このことについて主人公セラフィマは当初強い違和感を感じていた。いくら敗走したといえ、仲間を敵とみなし、銃殺するのはやりすぎではないか、と。しかしそのような甘い考えでは戦争には勝てないのだ。チームの士気を下げる不穏因子は消さなくてはならない。ソ連がドイツに勝つために。

見極める。

先日ある有名youtyubeグループがファンと卑猥な行為をしたメンバーの脱退を発表していた。中学の同級生によって組まれたグループからそのようにメンバーを脱退させるのは非情な決断ともいえる。しかし、彼らがこれからyoutuberとして価値を高めるために、人気を継続しさらに獲得するためには必要な決断だったのだろう。

自分がこれから何かを成し遂げるうえで、このような決断を迫られるかもしれない。ここまで大きな話でなくとも誰と仲良くして誰とは距離をとるか。
つまりは誰を”仲間”とし誰を”敵”とするか。

大学生になって、広く浅い人間関係ができた。社会人になるとその色合いは強くなるだろう。自分をいいほうへ影響させてくれる、自分をダメなほうへと影響させる人、見極めていかないといけない。そこまで明確に関係を断つ必要もないと思う。表面的にはぼんやりとあいまいに、でも自分の中では明確に。そうやって人間関係を形成する必要があるのかもしれない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?