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私にとって服とは何か〜あきやさん講演会に参加して考えたこと

5月のあきやさん講演会で例の「ギャル事件」を耳にしてから、ずっと(休み休みだけど)考えていたことがある。

私にとって、服って何だろう。

小さな頃から服には何のこだわりもなかった。中学まで自分で服を選ぶなんて考えたこともなく、高校に入ってようやくうっすら意識し始めた程度。そんな私の目には、15歳にして自分の「好き」を選び抜き、さらにそれが他人(ギャル!)に通用しなかったことにショックを受けた、というあきやさんはあまりにも眩しかった。

そんなファッション偏差値底辺だった自分がなぜ、今になってこんなにガチで服と向き合っているんだろう。しばらく考えているうちに、ある仮説に行き着いた。

決められない子どもが大人になって

服に限った話ではない。小さな頃からとにかく、決められない子どもだった。

正確に言えば、AとBで「迷って決められない」のではない。AかBか、あるいはCかDかもわからない。「どれでもいいよ、何にする?」と聞かれた瞬間、頭が空っぽになってフリーズしてしまうのだ。幼稚園の時にはすでに、「将来なりたいものは何?」に答えられずに数日間はひたすら黙って過ごした記憶がある。

黙りこくる私を前に大人は皆ため息をついて、「この子は決められない子、自分の意見を言えない子」と私を分類した。それはそれで、居心地が悪かった。だから成長するにつれて、周りの様子を伺っては誰かの真似ばかりするようになった。

服、お菓子、文具、習い事。みんなが持っているから私も欲しい。みんながやっているから私もやりたい。たとえ自分の本心じゃなくても何かが欲しい・やりたいと口にさえすれば、周りはそれが私の意見なんだと思ってくれた。少なくとも、「決められない・自分の意見を言えない子」というレッテルは剥がすことができた。

そんなことを続けるうち18歳になった私は、上京して一人暮らしを始めた。それは私の人生でかなり大きな転機だった。親元を離れ、ある程度自由に使えるお金を生まれて初めて手にしたことで、それまで自分の服すら自分で選べなかった私が、今度はタガが外れたように次から次へと服を買い漁るようになったのだ。

でもそれは、長らく抑圧されていた「好き」を解放した、とかそういうことでは決してない。こんな服が着てみたい!という方向性もなければ、〇〇ちゃんみたいになりたい!という憧れもなかった。おしゃれになりたい気持ちがなかったとは言わないけれど、おしゃれになるために服を買っていたのかといえば、多分違う。

ただ息を吸っては吐くように、喉が渇いたから水を飲むように、新しい服が目に入ったら買う。そんな感じに近い。ただしこちとらしがない学生、だから買うのはいつもプチプラ。暇さえあればいつもの駅ビルをうろうろして、目に留まったなんとなくいいなと思う服が「買ってもいい」と思える値段なら買う。その繰り返し。

とんでもない金額を服に溶かした割には、いつも変な格好をしていたはずだ。それもそのはず、私の買い物には何の軸もなかった。買うばっかりで捨てられないからクローゼットは異様なくらいパンパン。服持ちの自分は服好きだと自他ともに思っていたから自己認識も恐ろしく歪んでいて、言ってみればあれが私の黒歴史だ。

私が服を買いすぎる理由

服をひたすら買いすぎてしまうことは、それから随分長いことやめられなかった。引っ越しのたびに大量の服を輸送することに疲れ果て、結果として服を手放す技術だけは身についたけれど、断捨離のたびにリバウンドを繰り返していた。自問自答に出会ったことで、自分はずっと根本的には変わっていなかったと気がついた。

長年の自分の購買行動は一体何だったのだろうと、ずっと考えていた。

買い物依存だろうか? その割に買う瞬間は別に気持ち良くはなかった。ストレス発散だろうか? その割にあまりにも日常的に買ってばかりいた。変身願望だろうか? その割にいつも同じ場所で似たような服ばかり買っていた。どれも何となく違う気がする。むしろ、喉が渇いた時に水を買うという感覚に一番近いのだから。

ふと、思った。服を買い始めた頃の私は、常に何かしていないと不安だった。

学生時代、体育会系の部活と並行して山のような課題を日々要求される学科に所属し、細々とアルバイトもしつつやがて留学した。留学中も帰国後も就職後も、基本的に生活スタイルは変わらない。常に自分のキャパシティ限界まで予定を詰め込んで、いつも何かに追われるようにして動いていた。動いていないと不安なのだ。

自分が何者でもないことが、不安でたまらなかった。大きくなれば何かになれると思っていたのに、何にもなれそうにないことが心細くてならなかった。だから、とにかく何か新しいことをした。やってみないとわからない、やらないよりやったほうがいい。そうして目についた自分にできそうなことには片っ端から飛びついた。

あれ? この構造、買い物と全く一緒じゃない。

目についた買えそうな服は片っ端から買ってたじゃん、私。

そうだ。

私は多分、服を買うことで自分の外見をいつも新しくしていたかったんだ。行動するだけじゃまだ不安で、見た目を変化させることで私は自分を安心させたかったんだろう。私は前の私とは違う、大丈夫、ちゃんと前に進んでるって。変化=進化だと思い込んでいたんじゃないか。

だから私にとっては「新しい服」を買うことが重要で、それがおしゃれかどうかはどうでもよかった。だって私はおしゃれな人だと思われたかったわけじゃない。私は、いつも進化し続けている人だと思われたかったんだ! そしていつか何者かになる人だと思われたかった、ん、だーーーーー!!

ぎゃーーー!! なんてこと!!! は、は、恥ずかしーーーーーー!!!!!!!

私にとって服とは

ゼェ、ハァ、ゼェ。…と、いうことは。

私にとって服とは、内面の表れだ。

何者でもない自分が何者かにならなきゃいけないと焦っていた頃、動いてさえいればいつかどこかに辿り着けるはずとあてもなく走りつつ、取っ替え引っ替え服を買った。どんな服を着ているかはあまり重要じゃなかった。肝心の何になりたいのかがさっぱりわからなかったし、好き・似合うなんて考えたこともなかったから。

それが自問自答に出会って、私が本当に好きな服って何だろう? と考えた瞬間、これまで自分が大量に買った服がなりたい・好き・似合うのどれでもないことに気がついて、天地がひっくり返ったようだった。そこから今まで、ずっと服について考え続けてきた。服に出会い、ブランドに出会い、それから人に出会って、書いて。

ふと、思う。もしも服が心の状態をそのまま表しているのだとしたら、逆に自分が服に求めるものを明らかにしていけば、自分が心の奥底で望んでいることを目に見える形として表に引っ張り出すことができるんじゃないか。

というか、私が自問自答に出会ってから今日までやってきたことって、まさにこれなんじゃないか。

言葉によって内面を自覚する。その上で惹かれる服=内面に沿った服を探す、着る。着て暮らすうちにまた内面について自覚する。あるいは服との出会いが先でもいい。力を持った服であればあるほど、自分でも気づかなかった内面を引っ張り出してくれるから。気づいたらそれを言葉に置き換える。そのうちに自分が服に求めるものの解像度が上がっていき、自分の内面が自分でわかるようになってくる。

言葉が主観、服が客観って、まさにそういうことなんじゃないか。

自問自答に出会ったおかげで、この世には本当に力を持った服があり、それを着ると大げさじゃなく人生が進むと教えてもらった(特にY'sとyeeは私にとって師匠のようなブランドだ)。それからあきやさんやガールズさんとの交流で気づかされたことが山ほどあった。それらをこうして書き起こしてきたことが、どれほど私を助けてくれたことか!

あー、スッキリした。

ずっと考えていたことがぼんやりわかって、こうして書き出してみたらもっと輪郭がハッキリして、今ものすごくスッキリしている。なんか満足しちゃったので、今日のところはいったんこれでおしまい!




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