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相対的幸福論

年々、自分の幸せが相対的になってきている気がする。

小さい頃は「何これ 美味しいぃ!」って、その食べ物に対して真っ直ぐ向き合って、それが美味しいことが純粋に幸せだったはずなのに

今では「前食べた〇〇より美味しい!」って比較対象がある上での相対的な幸せだ。

そもそも幸せって何だろな、全然分かんないけど。

例えば、自分が好きなことで誰かに認められたら幸せ。

絵だったり、写真だったり、音楽だったり、文章だったり。嬉しいから、幸せだから、もっと上手くなりたいって、貪欲になる。

あれ、でもはじめからそうだったんだっけ。「褒められたい」から始めたんだっけ。褒められたことがきっかけで始めたんだっけ。

もっとなんか、純粋に、好きになったんじゃなかったっけ…

例えば、指輪を見て、綺麗だなー欲しいなーって思う。それを大好きな彼氏が買ってくれる。それ幸せだな。

欲しいものが手に入ったから幸せになったのかな。それとも大好きな彼氏が買ってくれたから幸せなのかな。もしくは両方?俗に言うリア充のステータス?

その後 彼氏と散々な別れ方をしたとして、私は同じ指輪を見て「綺麗だなー手に入って幸せだなー」って無垢な気持ちで言え…るわけないな。

もっと、純粋に、好きに…幸せに…

幸せって何だっけ。そんな難しかったっけ。


今思えば、昔から何でも比べては あぁでもない、こうでもないって言ってたのかも。純粋に何かを美味しいって思ってたわけじゃないのかも。

あの時、ご飯を作ってくれたお母さんがにこにこ笑ってたからとか、自分もお手伝いしたからとか、味覚と関係ない部分で、色んな感情や状態を、今までの経験と比較して「美味しい、幸せだ!」って思ってたのかも。

今、とても相対的だと感じてしまうのは、自分が小さかった頃より昔の記憶が鮮明にあって、経験が積み重なって、ボキャブラリーが少しだけ増えて、より具体的に物事を把握して、言葉を発せられるようになったからじゃないのかな。

色々考えてみたけど、幸せって結局感情のひとつだから、無理に純粋さを求めたりとか、絶対的なもの探したりとかってそもそも無意味なのかもね。幸せは綺麗なものだって勝手に思い込んでただけだな。

分かったことは

私が幸せを感じる時って、結局殆どが相対的で、純粋無垢でもないし、どっちかと言えば醜い感情なのかもしれないってこと。


まぁでも、今日バイト先で貰ったお菓子が美味しかった。

それで幸せだから、いいや。

簡単じゃん。







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